つぎに掲げる図2-9①②は、元禄一三年(一七〇〇)と慶応三年(一八六七)に、小川村から納められた貢租の内訳を示したものである。この図から、両年ではいずれも、銭で納める本年貢が貢租の大部分を占めていること、その一方で、幕末の慶応三年に至ると、酒造業や水車稼ぎ・質屋業に課される小物成の諸運上、六尺給米・蔵前入用・伝馬宿入用からなる高掛三役、国役といった費目が増え、いずれも一~五%程であるが、本年貢以外の費目の占める比重が大きくなっていることがわかる。百姓が納めなければならない貢租の種類や額は、時代がくだるにつれ増える傾向にあったが、とくに一八世紀後半から、諸運上が賦課されるようになることは、小川村に農業以外の産業が取り入れられ、百姓らの生活に変化が現れていることを示している。
図2-9① 元禄13年小川村の貢租内訳 元禄14年5月「辰之御年貢勘定目録之事」 (史料集13、p107)から作成。 |
図2-9② 慶応3年小川村の貢租内訳 明治元年2月「卯御年貢皆済目録」 (小川家文書)から作成。 |
享保期に開発された大沼田新田や廻り田新田の場合はどうだろうか。両村の貢租額とその内訳の変遷をほぼ一〇年毎に示した、二つの棒グラフをみよう。(図2-10・11)一八世紀後半の貢租額と内訳は示せないが、両村とも、やはり銭で納める本年貢が貢租の中心であったこと、その量は一八世紀中頃以降ほぼ固定化するが、貢租額全体は増大する傾向にあったことが読み取れる。
図2-10 大沼田新田貢租額の変遷と内訳
各年の年貢皆済目録から作成。
図2-11 廻り田新田貢租額の変遷と内訳
各年の年貢皆済目録から作成。
貢租額が増加しているのは費目が増えているからで、たとえば、両村とも宝暦七年より高掛三役が課されたほか、大沼田新田では「水車運上」が安永二年(一七七三)、「酒造冥加」が文化一三年(一八一六)から、廻り田新田では「水車運上」が文化五年、「質屋稼冥加」(質屋運上)が安政六年(一八五九)から、それぞれ賦課されている。小川村と同様、両村でも一八世紀後半以降に、農業以外の産業が成立しているようすがうかがえる。
しかし、両村の貢租額を増加させている最も大きな要因は、銭ではなく、米で納めることとされていた本年貢である。銭納の本年貢は畑に対して賦課されたが、米納の本年貢は田に賦課された。両村では、畑を造成し直し田とすることが行われており(このような田を畑田成(はたたなり)という)、大沼田新田では元文元年(一七三六)より、廻り田新田では天保一四年(一八四三)より、これらの田に対し米納の本年貢が賦課されるようになった。ただし、品質に問題があるためか、両村の田で収穫された米が直接幕府に納められたわけではなく、銭もしくは他所で買った米が納められた。幕末にかけて米納の本年貢の比重が増えているのは米価の高騰によるもので、これは、米に相当する銭、あるいは米を買って納めなければならない両村の百姓の負担が増大したことを示す。なお、廻り田新田で「高掛三役」の比重が増大しているのも、米価高騰の影響によるもので、同村では六尺給米を他所で買った米で納めていた。
以上のように、当地の百姓が村を通じて納めなければならない貢租の額や種類は増加する傾向にあったが、それは村における百姓の生活の変化とも密接にかかわるものであった。