小川村における年貢賦課と収納

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領主による年貢の賦課と収納は、百姓個々にではなく村を単位に行われた。そうだとすると、村では個々の百姓に対してどう年貢を賦課し、取り立てていたのか。小川村を事例にみてみよう。次に掲げた図2-12は、主として一八世紀後半以降の小川村における本年貢をはじめとする諸貢組の賦課と収納のようすを知るために作成したもので、これらの賦課と収納に際して作成された文書がいつ、誰により作成されたのかを示してある。
 
貢租の賦課
図2-12 貢租の賦課・上納と文書

 本図に示されるとおり、小川村の本年貢の納期は三期に分かれていた。おおむね、一期は七月、二期は十月、三期は一二月で、各期に納入される本年貢をそれぞれ、夏年貢(夏成(なつなり))・秋年貢(秋成(あきなり))・皆済(かいさい)年貢などと呼んでいた。このことについて、当村の概況を記した正徳三年(一七一三)の村明細帳は、七月には収穫した小麦を売った金で夏年貢を、十月には収穫した蕎麦を売ったお金で秋年貢を納め、残りの皆済年貢を年末一二月に納めるとしている。つまり、三期に分かれた本年貢の納期は、当村の農業のサイクルに沿ったものなのである。一方、小物成などの諸費目は、最後の三期目に皆済年貢とともに納められた。
 これら三度の納期では、年貢賦課・収納のため、幕府・村・組の各レベルで多くの文書が作成された。ただし、幕府の代官らが作成したのは、村に年貢量を通知する廻状(かいじょう)や年貢割付状、そして年貢の受取証にあたる小手形(こてがた)や年貢皆済目録だけであり、個々の百姓へ本年貢や小物成などを賦課し、取り立てるための多様な帳簿類は、村や組で独自に作成されていた。年貢にかかわる文書として、年貢割付状と年貢皆済目録がよく取り上げられるが、これらは年貢の賦課や取り立てに際して作成された文書の一部であり、村内で個々の百姓に年貢をどう賦課し、取り立てたのかを記すものではない。すなわち、個々の百姓への年貢賦課・収納は、代官らの関知しないところで、村や組で独自に行われていた。ここに、村請制が村や組の高度な自治と自律性を前提に成り立っていたことがよく示されている。
 以上のように、小川村では本年貢をはじめとする貢租が三期に分けて納められること、各時期における個々の百姓への貢租賦課・収納には村や組が重要な役割を果たすこと、などが本図から読み取れる。これらの点を踏まえたうえで、以下では、図2-12によりながら、小川村における個々の百姓への貢租賦課と取り立てのようすを夏・秋、冬の二つに分けて、具体的にみていくこととする。