夏・秋の場合

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まずは、夏・秋の年貢賦課と収納がどのような行程で行われたのかをみていこう。
 夏・秋の年貢賦課は、代官など支配役人から村にあてて、いつまでに、どれだけの年貢を納めよ(去年と同じようになどとされることもある)、という通達が出されることから始まる。これを受けて村では、名主小川家を中心に、百姓が所持する土地の面積に応じ、それぞれの夏年貢・秋年貢の額が算定されることになる。その際、村で作成されたのが年貢大概割賦帳である。年貢大概割賦帳は、毎年六月に作成される。安永九年(一七八〇)六月の「子夏御成箇大概割賦帳」を例に記載内容をみると、市左衛門は金一分と銭四七八文、弥五兵衛は銭一貫二八四文といったように、百姓一人一人の夏年貢納入額が金と銭で書き上げられている。この帳面により、個々の百姓の夏年貢負担額が決定された。なお、秋年貢は夏年貢と同額なので、秋年貢を個々の百姓に割り付ける際にも、同じ帳面が使用されたものと考えられる。
 個々の百姓から夏年貢や秋年貢を取り立てる実務をになったのは、小川村を構成する八つの組であった。組では、成員である百姓のなかから年貢の取立人もしくは取立当番が選ばれ、彼らが取立実務にあたった。その際、各組毎に何らかの帳面が作成され、一九世紀段階の坂組では、夏成年貢取立帳と秋成年貢取立帳という帳面が作成されていた。これらの帳面は、年貢取立当番により作成され、誰がどれだけの夏年貢・秋年貢を納めるのかが記されていた。例えば、図2-13に掲げた、弘化二年(一八四五)の坂組の「当秋成御年貢取立覚帳」は、表紙に「取立当番 長兵衛」という署名があり、この帳面が取立当番の長兵衛により作成されたことがわかる。また、内容をみると、「政右衛門」が銭七七一文、「久五郎」が同じく一貫四六二文の秋年貢を、「入用」(村入用)とともに納めることとされている。年貢取立当番となった者は、このような帳面を作成することにより、組の成員一人一人から夏年貢・秋年貢を集めていたのである。

図2-13 弘化2年9月「当秋成御年貢取立覚帳」の表紙(右)と内容(左)(細田家文書)

 かくして、組で集められた夏年貢・秋年貢は、名主小川家宅に持ち寄られた。そこで、諸帳面と実際に納められた夏年貢や秋年貢を突き合わせる寄合(会合)が持たれた。この寄合には、名主小川家、各組の組頭もしくは取立人・取立当番、文政三年以降はさらに年寄が参加していたものと考えられる。この会合で作成されたのが、年貢取立帳と年貢突合帳で、前者は個々の百姓が納めた年貢額と日付を書き上げたもの、後者は納めた年貢額を組毎に集計したものである。両帳により、個々の百姓や組が納めた年貢額が、村という単位で把握・確認された。
 村でとりまとめられた夏年貢・秋年貢は江戸に運ばれ、幕府に上納されることになった。安永七年の取り決めによれば、これらの上納は、名主とともに、惣百姓の中から選ばれた取立人一・二名が差添人となって行われた。文政三年(一八二〇)には、年貢金を年寄(としより)立会のうえで名主が「封印」し、上納は「納方当番組頭」一名に小前百姓一名が付き添って行うこととされた(小川家文書)。さらに時期が降る幕末期には、組頭や小前百姓のなかから「納当番」が二名ほど選ばれ、村から江戸への年貢金の輸送や上納実務を担当していた。こうした村からの年貢上納が確認されると、幕府役人の側から村にあてて、受領証にあたる小手形という文書が出された。夏・秋年貢の賦課と収納のようすは、おおよそ以上のようなものであった。