年貢割付状およびその他の貢租費目の通達を受け、村では、夏・秋と同様に名主が中心となって、これらの費目を個々の百姓に割り付けていく。その際に作成されたのが、年貢小割帳、掛り物永小割帳、玉川上水両側三間通萱年貢・分水村中呑水料并呑水につき村中小入用、国役小割取立帳である。これらにより、個々の百姓が納入しなければならない、本年貢や諸掛物の額が算定された。ただし、国役小割取立帳を除く三種類の帳簿は、個々の百姓が納めなければならない額が永で記されている。そのため、永を、実際に使用されている金や銭に換算する必要があった。その際に作成された帳簿が年貢大概皆済帳で、記載様式は次のようなものであった。
市左衛門 |
一(ひとつ)、金三分(ぶ) 一貫(かん)三百三十三文(もん) |
内金二分 八百六文 |
残金一分 五百二十七文 |
(安永五年一一月「申御年貢大概皆済帳」、小川家文書) |
これは、安永五年(一七七六)の大概皆済帳の記載の一部である。まず「一」と書かれている金三分と銭一貫三三三文は、この年に市左衛門という百姓が納めなければならない本年貢、諸掛物や玉川上水両岸の萱年貢・水料金など諸費目の合計額である。続いて、「内」とある金二分と銭八〇六文は、同人が夏・秋にすでに納めた額であり、これを差し引いた、「残」の金一分と銭五二七文が、この冬、市左衛門が納める額となる。年貢大概皆済帳では、小川村の百姓一人一人について、このような算用が行われていた。ところで、本帳面の算用にあたり用いられる金と銭の換算比率は一様でなく、微妙に異なる複数の換算比率が用いられており、納入の段階で、いずれかの比率に固定したようである。それゆえに、百姓によっては過払いとなったり、不足が出たりすることになった。こうした誤差を、翌年に「年貢皆済過不足帳」という帳面を作成し調整した。すなわち、年貢大概皆済帳が「大概」(だいたいの、という意味)とされたのは、このような過不足調整を必要としたからだろう。
以上にもとづく百姓からの取り立ては、夏・秋と同様、組単位で行われた。一九世紀段階の坂組では、取り立てにあたり、皆済年貢取立帳が当番によって作成されていた。以降は夏・秋でみられた行程と変わるところはなく、村での会合で、年貢取立帳や年貢突合帳により、個々の百姓や組が納めた額が把握・確認された後、江戸へ運ばれ、幕府へ上納された。村からの上納が確認されると、幕府役人の側から村にあてて、受領証である小手形が出されたと考えられる。そして、後日、あらためて夏・秋・冬一年分すべての年貢が納められたことを証明する年貢皆済目録が出された。
図2-14は、寛政四子年分の年貢皆済目録で、代官伊奈友之助(忠富)(いなとものすけ(ただとみ))より小川村の名主・組頭・惣百姓にあてられている。末尾の部分にあたる下の段の写真には、去る寛政四子年分の「本途」(本年貢)・小物成・高掛物をこの目録に記載した通りすべて納めたので、その証明として、今までに渡した小手形と引き替え、この目録を渡す、という趣旨の文章が書いてある。すでにみたように、三度にわたる年貢納入に際し、支配役人から村にあて、小手形が出されていた。これらを回収し、代官から村に一枚の年貢皆済目録が渡されることにより、一年分の年貢がすべて納入されたことが証明され、三期にわたる年貢賦課・上納の行程は完了することとなった。
図2-14 寛政5年3月「子皆済目録」の冒頭(上)と末尾(下)(小川家文書)