以上のように、年貢の賦課は幕府→村→組→百姓、反対に上納は百姓→組→村→幕府という流れで行われており、百姓への年貢賦課・収納に関する実務の多くが村の内部でになわれていた。他方、幕府の代官や役人による関与は、年貢額を指定したり、皆済目録を発給したりするのにとどまっていた。村が年貢の賦課・収納を請け負う村請制は、兵納分離により村とは空間的に離れた都市に住む領主や幕府にとって、煩雑な実務の多くを村に任せ、居ながらにして年貢を受け取ることができる、非常に都合のよい支配の仕組みであった。しかし、図2-12の文書作成のようすに示されるように、村請制のもとで、村内には幕府の預り知らない部分が多くあったことも事実で、このことが百姓たちの自治や、相互扶助を育くむこととなった。
これまでにみてきた小川村の年貢賦課・収納の実務には、名主小川家のほか、組頭、さらには組毎に置かれた取立人・取立当番といった者たちが関与し、勘定は彼らの参加する会合の場で行われた。とくに、取立人・取立当番はすべての百姓から選ばれるので、年貢の賦課・収納の実務にかかわるのは、一部の村役人に限定されていたわけではなく、一般の百姓にも及んでいたことになる。しかし、このように多くの百姓が関与する年貢賦課・収納の方式は、当初からみられたわけではなかった。毎年出される年貢割付状には、早い時期から、名主とすべての百姓の立ち会いのもとで、偏りがないよう勘定すべき旨の文言がみられるものの、実際には村内の年貢賦課・収納に果たす名主小川家の役割が大きかった。それゆえに、百姓らは村方騒動などを通じ、年貢賦課・収納への関与を少しずつ強めていった。安永七年(一七七八)、組毎に年貢の取立人が置かれたのも、その延長上に位置付けられる出来事である。村請制は、各自の年貢納入額を百姓たちが相談・合意のうえで決定し、取りまとめるという点で、村・百姓の自治に依拠し、またそれを高めるものであった。
同様のことは、年貢弁済にも当てはまる。村請制は、年貢を村全体の責任で完済する制度であったため、村内で、経営を破綻させてしまうなどの事情により、年貢を支払えない百姓が出ると、その家の負担すべき年貢はほかの者が肩代わりしなければならなかった。つまり、連帯責任を強いられたということであるが、開発以降、一八世紀前半頃までの小川村では、開発人にして名主である小川家が、そうした肩代わり・弁済に大きな役割を果たしていた。他方、小川家以外の百姓らはなお流動的で、百姓同士の弁済は限定的なものであった。しかし、一八世紀中頃以降、百姓の流動性が解消され定着性が高まると、弁済のための、土地を担保とする百姓同士の質取引が、数多く行われるようになっていく。村請制は、百姓にとって、年貢納入の連帯責任を強いられる制度であったが、それは百姓同士が年貢弁済をはじめとするさまざまな側面で、助け合う契機ともなりうるものであった。
以上のように、村請制が幕府をはじめとする領主にとって都合がよく、また百姓に年貢納入の連帯責任を負わせる制度であったことは確かだが、同時に百姓の自治と百姓同士の相互扶助を育み、高めるものでもあった。同じことは、小川村以外の村についても当てはまる。小平市域の土地に定着した百姓たちは、このような村に拠りながら、くらしを営んでいったのである。