まず、小川村の本百姓・脇百姓・水呑百姓からみていこう。これらの存在をよく示しているものに、正徳三年(一七一三)の村明細帳がある(史料集一、一二頁)。いわば、村勢要覧にあたるものであるが、それによれば、当時の小川村の家数は二〇二軒で、その内訳は本百姓一七三軒、脇百姓一〇軒、水呑百姓一九軒であった。このうち脇百姓と水呑百姓は、幕府からの指示や用件が記された書状が到達した際、それを次の村に伝達する役割を果たしていたとされる。
本百姓・脇百姓・水呑百姓の違いは、貢租負担の仕方を基準にすると、つぎのように整理できる。すなわち、本百姓は自分の土地を所持し、年貢と伝馬継ぎなどの役(幕府・領主への労働力提供)両方を負担する者。脇百姓は自分の土地を所持し、その分の年貢を負担するが、屋敷を所持しないなどの理由から役を負担しない者。水呑百姓は自分の土地を所持せず、それゆえに年貢も役も負担しない者となる。脇百姓と水呑百姓は、役負担の代わりに上述の伝達の役割を果たしており、いずれも村の正規の構成員とは認められていなかった。
つぎの「上水呑」は、宝永七年(一七一〇)頃の「(玉川上水萱年貢取立帳)」(小川家文書)という帳面に現れる(図2-15)。この帳面は、萱年貢と玉川上水からの分水料金を、村の百姓らに割り掛けたものであるが、後者の分水料金の負担の仕方が、「上水呑」とされるかどうかを決定したようである。
図2-15 「上水呑」と肩書きされた百姓
宝永7年頃「(玉川上水萱年貢取立帳)」(小川家文書)
表2-7 本百姓・脇百姓・水呑百姓と「上水呑」 | |||||||
階層 | 土地所持 | 年貢 | 役 | 廻状伝達 | 分水料金 | 軒数 | |
本百姓(含屋守) | ○ | ○ | ○ | - | 全額 | 167 | |
脇百姓 | ○ | ○ | × | × | 全額 | 2 | |
脇百姓 | ○ | ○ | × | ○ | 半額 | 24 | ←上水呑 |
水呑百姓 | × | × | × | ○ | 半額 | ||
宝永7年頃「(玉川上水萱年貢取立帳)」(小川家文書)を参考にして作成。 |
上の表は、本百姓・脇百姓・水呑百姓の別と「上水呑」の関連を示したものである。この表から、分水料金を半額しか支払っていない者二四軒が「上水呑」とされていたことがわかる。そして、そのすべてが脇百姓・水呑百姓から構成されていた。彼らが分水料金を半額しか支払っていないのは、役を負担しない代わりに、上述の伝達の役割を果たしていたことによる。
しかし、脇百姓・水呑百姓全員が、「上水呑」だったわけではなく、脇百姓の二軒が分水料金を全額支払っていることが確認される。この二軒は、理由は定かでないが伝達の役割を果たしていないため、分水料金の全額を支払っているのである。よって、「上水呑」とは、脇百姓・水呑百姓とほぼ重なるが、全くイコールの関係でもなかったといえる。分水料金を半額支払うことにより、玉川上水より取水した水を飲ませてもらっている者、それが「上水呑」なのである。
以上の脇百姓・水呑百姓、「上水呑」は、近世を通じて存在していたわけではなかった。一八世紀前半までには、脇百姓・水呑百姓は自分の屋敷・耕地を持ち、年貢と役の両方を負担するようになり本百姓化したようである。それにともない、分水料金もすべての百姓が頭割で同額を負担するようになり、「上水呑」とみなされる階層も確認できなくなる。