以下、一七世紀中頃にひらかれた小川村と、その約七〇年後にひらかれた享保期新田の村々が、幕府からどういった助成を受けていたのかを具体的にみてみよう。
まず、小川村の場合だと、百姓たちが名主小川九郎兵衛(おがわくろべえ)の村政を批判した寛文二年(一六六二)の村方騒動(むらかたそうどう)から、当時の代官今井九右衛門(いまいくえもん)が小川村にさまざまな助成を行っていたことがうかがえる(第一章第一節)。百姓側の訴えによれば、代官今井は、小川村の人馬を使った際に、本来は無料の駄賃を支払う、また岸村(きしむら)の近くにある幕府の御林(おはやし)直竹山(図0-9)から、風で折れてしまった松や、立ち臼の用材とする木を与えるなどの助成を行っていた。これらは、さきほどの分類では、いずれも生活の特別手当に該当するが、百姓は九郎兵衛がこれらの手当を着服していると批判した。
このように、開発後間もない頃の小川村では、代官がいろいろなかたちで御救いを行っていた。そして、その配分が村方騒動の大きな争点となるほど、当時の百姓のくらしにとって、御救いは重要なものであった。もっとも、小川村の生産はこののちも、なかなか安定せず、一七世紀後半~一八世紀前半は、何らかの災害や不作に頻繁に見舞われた。
この時期に小川村を襲った災害や不作は、すでに掲げた表1-9で示した通りだが、とくに寛文四・五年、天和元年(一六八一)、元禄一五年(一七〇二)、正徳四・五年(一七一四・一五)、享保一六・一八年(一七三一・三三)には、「少雨損」「風水損」「霜腐」といった言葉で表現されるように、少雨や風雨、霜などによって農作物が被害を受けたとして、年貢が減免されている。また、元禄一三年(一七〇〇)には小川村から夫食拝借願いが出された。その結果、どうやら貸与が認められた模様であり、翌一四年には拝借した夫食が、村から返納されている。このように、一八世紀前半までの小川村は生産が不安定であったため、御救いとして、年貢の減免や夫食貸しが、しばしば実施されていた。