享保期の新田開発と助成

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享保期(一七一六~三六)に開発された新田村に対しても、幕府の助成がみられた。享保期の武蔵野新田開発にかかわった幕府の担当役人は、比較的短い期間で頻繁に変化するが、そのなかで、最初に開発の助成策を打ち出したのは、野村時右衛門(のむらときえもん)と小林平六(こばやしへいろく)であった。両名は、新田開発方役人に起用された享保一二年(一七二七)九月から、処罰される同一四年一二月までの間、武蔵野新田支配にあたった。
 野村・小林は、新田開発方役人となった翌月の享保一二年一〇月、早速連名で、関連する村々に通達を出した。そこには、新田に出てきて住みつく出百姓(でひゃくしょう)に対し、家屋敷を建てるための家作料(かさくりょう)や、耕作に必要な農具を購入するための農具料(のうぐりょう)といった、開発に必要な経費を、彼らの住居の様子および開発地の広狭に応じて支給することが記されている。
 この通達では給付の基準が明確ではないが、実際には、家作料が家屋敷一軒につき金二両二分、農具料が開発地一反につき銭六二四文という基準で支給された。小川新田では、享保一四年に、前年の秋までに移住してきた二二軒に対して家作料が支給されている。また、同年五月には、江戸の大岡忠相(おおおかただすけ)の番所(町奉行所)にて、当新田の土地をひらいた一二三名の百姓に農具料が支給されているが、その基準は、開発地一反につき銭三一二文というものであった(図2-16)。

図2-16 享保14年5月「御新田開畑農具料被下渡銘々請取判形帳」
(史料集12、p.66)

 しかし、こうした幕府の支出による助成策(生活の特別手当)を講じる一方で、野村と小林は、過酷な年貢徴収を行った。小川新田では、両名が新田支配をになうようになった享保一二年の年貢額が、前年の永二九貫九八九文から永四七貫二八〇文へと急増した(第一章第二節2)。そのため、小川新田をふくめ、各所で年貢の滞納が起こった。これにより、野村と小林は、享保一四年一二月に家財・田地を没収のうえ追放された。