助成方法の変化

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野村・小林の失脚後、武蔵野新田は享保一二年以前と同じく、代官岩手藤左衛門信猶(いわてとうざえもんのぶなお)と荻原源八郎乗秀(おぎわらげんぱちろうのりひで)の支配に復した。享保一七年五月に岩手が没すると、荻原と上坂安左衛門政形(うえさかやすざえもんまさかた)の二人が、そして同一九年からは、上坂が一人で武蔵野新田支配を担当した。
 上坂は、野村・小林が担当していた時期の高額の年貢を引き下げ、支払いを徹底するとともに、それまでの滞納分を年賦で納めさせた。そのうえで、開発を促進するための策を講じた。なかでも注目されるのは、開発料の支給である。享保一七年に上坂は、公金一五〇〇両の資金を元金として武蔵野新田以外の村々に貸し付け、年一割の利子を徴収し、その利子を、武蔵野新田の百姓に、開発した土地の広さに応じて支給した。これが、開発料であるが、いわゆる公金貸付の方法を利用することで、従来の家作料・農具料のように、幕府が支出した資金をそのまま百姓に無償支給するという方法をあらため、幕府の支出を制限しつつ、新田の百姓に対する安定的な開発資金の供給がはかられたのである。
 また、元文三年(一七三八)二月には、管下の村々に、新田・古村を問わず、備荒貯蓄(びこうちょちく)を導入した。それは、百姓一軒あたり、麦三升、粟か稗のいずれかを三升、田のある村の場合は籾も三升ずつ、それぞれの収穫の際に蓄えるようにし、名主・組頭・長百姓のなかから決めた当番がこれらを預かる、というものであった(『国分寺史料集(Ⅱ)』、一四三頁)。これも、新田助成に対する幕府の支出をより限定するための変更であった。