御救いの後退とその影響

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折しも、当時の幕府は、困窮する百姓の救済措置である御救いを制限するようになっていた。こうした議論は、享保九年(一七二四)閏四月の段階にはすでに行われており、同一八・一九年には、夫食貸しが、幕府の財政状況を悪化させ、未返済分の累積が百姓の生活をかえって困窮させているということで、「大損毛・家財焼失」そのほか特別な理由がないかぎりは、今後、夫食貸しをしないという方針が打ち出されていた(『牧民金鑑』下巻)。代官上坂が、家作料・農具料のような、百姓に対する開発資金の無償支給をあらため、公金貸付の方法による開発料の支給や備荒貯蓄の導入によって、新田助成のための幕府の支出を制限しようとしたことは、まさに、こうした動向と連動するものであった。
 以上のように、幕府が御救いを限定したのは、百姓らがそれを必要としなくなったからではない。一八世紀中頃になると、小川村や享保期新田の村々では、ようやく人びとが定着するが、彼らが暮らしを維持し続けること(当時の言葉で「相続」などと表現する)は、なお容易ではなかった。そのため、御救いを限定したとはいえ、年貢を安定的に確保したい幕府や、各村の開発人にとって、百姓がこの地で暮らしを維持し続けることができるようなしくみや条件を整えることは、とても重要な課題であった。この課題に、幕府や各村の開発人は、どう対処しようとしたのだろうか。