貯穀制度の導入

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現在の小平市域にあった近世村のうち、小川村は一七世紀中頃に開発され、そのほかの小川新田、大沼田新田、野中新田与右衛門組・善左衛門組、鈴木新田、廻り田新田はいずれも、幕府の享保改革にともなってひらかれた村(武蔵野新田)であった。以下では、この区別を意識しつつ、幕府の御救いの後退にともない、新たに導入された救済制度についてみていこう。
 まず、小川村の場合であるが、同村では貯穀(備荒貯蓄)の制度が導入された。貯穀制度とは、凶作や飢饉といった非常時に備え、米や雑穀を村に設けられた郷蔵に蓄え、保管しておく制度のことである。
 すでに述べたように、元文三年(一七三八)に代官上坂政形は村々に対し、貯穀を指示しているが、寛保元年(一七四一)にも、凶作や大きな難儀および長患いなどの困難に備え、雑穀を取り集めて、村で蓄えておくようにとして、村々に貯穀を命じた(史料集二〇、三頁)。残念ながら、このとき、どういう方法で貯穀が行われたのかは不明である。
 また、「大代官」(通称関東郡代)伊奈半左衛門忠尊(いなはんざえもんただたか)は、明和四年(一七六七)に取集穀という貯穀を管下の村々に導入した。これは、村で定めた米・雑穀のうちの一品を、家ごとに一升ずつ取り集め、郷蔵もしくは村内の富裕者に預けて置き、翌年に売り払って、その代金を利殖し、百姓らに還元するという制度であった。明和五年の記録によれば、小川村では、百姓一軒につき一升、村全体で二石の粟が集められていた。
 天明八年(一七八八)、幕府の寛政改革の一環として、再び伊奈忠尊から関東幕領村々に対し、凶作によって飢饉となった際、差し迫った危機をしのぐためとして、貯穀が命じられた。このときの小川村で行われた貯穀の方法は、男一人につき一日分六合、女一人につき一日分四合を基準とし、年々に定められた日数分の稗を備蓄するというものであった。例えば、寛政三年(一七九一)の市右衛門という百姓の場合、同人は男二人・女一人の三人家族であったが、この三人の三日分の稗四升八合を出穀している。