貯穀の蓄積状況と分配

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表2-8は、伊奈忠尊から貯穀を命じられた天明八年(一七八八)以降の、小川村の貯穀蓄積状況を示したものである。最初の天明八年には、七日分の稗三二石五斗七升八合が百姓らから出穀され、備蓄された。一年ごとの出穀量は、寛政二年(一七九〇)まで七日分・九日分と多かったが、翌年以降、三日分もしくは二日分となり、百姓らの負担も緩和されたようである。備蓄量は、文化六年(一八〇九)まで徐々に増加し、同年の時点で三六四石四斗五升二合、七二日分の稗が備蓄されるにいたっている。
表2-8 小川村の貯穀蓄積状況
年代出穀高(石)日数累計(石)日数累計
天明8 (1768)32.578732.5787
寛政元(1789)40.818973.39616
寛政2 (1790)34.3567107.75223
寛政3 (1791)15.4863123.23826
寛政4 (1792)15.3903138.62829
寛政5 (1793)15.0963153.72432
寛政6 (1794)15.0963168.8235
寛政7 (1795)15.0963183.91638
寛政8 (1796)15.0963199.01241
寛政9 (1797)16.2123215.22444
寛政10(1798)16.132 ※3231.35647
寛政11(1799)15.9363247.29250
寛政12(1800)15.9543263.24653
享和元(1801)15.3063278.55256
享和2 (1802)30.534 ※6
享和3 (1803)309.08662
文化元(1804)
文化2 (1805)10.0922
文化3 (1806)10.0362
文化4 (1807)
文化5 (1808)
文化6 (1809)364.45272
*表中の※は推計値を示す。
*松沢裕作『明治地方自治体制の起源』p.156の表をもとに作成。

 しかし、不作の影響で食糧の夫食が確保できなくなったため、百姓らは馬喰町(ばくろちょう)(現中央区)御用屋敷詰代官で貸付掛の伊奈助右衛門(いなすけえもん)に願い出て、これらの備蓄された稗を、文化六年に一五二石二斗二升六合、同七年に二一二石二斗二升六合と、すべて取り崩し、各戸に分配した。文化六年に取り崩した分は文化八年から五か年賦で、文化七年分は文化一〇年から五か年賦で返済されたようである。そこでの貯穀の分配は、個々の百姓が蓄積した量に応じて受け取り、また受け取った分だけ詰め戻す、という形で行われた。
 このように、小川村で導入された貯穀制度は、百姓の支出によって支えられたしくみであり、領主である幕府の御救いが後退した結果、困窮者の救済に関する負担が村側に転嫁されたことを端的に示すものであった。