川崎平右衛門の肥料貸付

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つぎに、享保期に開発された武蔵野新田の場合をみると、代官上坂に続き、武蔵野新田の支配にあたったのが川崎平右衛門定孝(かわさきへいえもんさだたか)であった。川崎は、武蔵国多摩郡押立村(現府中市)の名主の家に生まれたが、私財を投じての窮民救済の功績などにより、元文四年(一七三九)から「南北武蔵野新田世話役(なんぼくむさしのしんでんせわやく)」として登用された。それまでの過酷な年貢徴収や元文三年の凶作により、武蔵野新田は荒廃していたため、川崎は新田を救済・保護する政策を打ち出した。
 なかでも注目されるのが、肥料貸付である。以下、図2-17によって、そのしくみを説明しよう。川崎は、上坂が幕府より拝借していた開発料元金一三〇〇両(もとは一五〇〇両であったが、元文三年に二〇〇両を幕府に返済)に加え、自らも幕府から金四〇六〇両を拝借し、計五三六〇両を百姓助成のための元金とした。この元金は、上坂の施策と同様に、一旦武蔵野新田外の村や町の富裕者に、年一割の利率で貸し付けられた(①)。しかし、それにより得られた利金(五三六両)は、そのまま新田百姓に無償で支給されるのではなく、肥料(糠)の購入資金とされた(②)。そして、値段が安い五・六月を見はからって購入された肥料は、出百姓が芝地を一反歩開発するごとに、永三五〇文相当という割合で貸し付けられた(③)。
 百姓らの返済は、貸与された肥料の代金に相当する量の収穫物、つまり雑穀(大麦・小麦・粟・稗・蕎麦など)によって行われた。その際、雑穀には、百姓の救いとなるよう、通常の相場よりも高い値段(「御救値段」)が設定された。こうして、関野陣屋(せきのじんや)(現小金井市)の川崎のもとへ集められた雑穀を「溜雑穀(たまりざっこく)」といい、凶作時などの備えとして備蓄されるとともに、必要に応じて売却・換金し、村が行う普請の費用として支給されるなど、新田助成のためにも使用された(④)。
 以上のように、川崎の肥料貸付は、開発や農業生産に不可欠な肥料を、新田百姓により有利な条件で入手させ、あわせて備荒貯蓄を進めようとするものであった。その際、幕府の出費を限定するため、公金貸付によって元金を一旦利殖する方法がとられたことは、上坂の施策の踏襲である。しかし、一方で、利殖によりえられた利子を無償支給せずに、肥料を購入して百姓に貸し付け、雑穀で返済させる手法に改変したことにより、上坂のもとでは別々に行われていた、開発の助成と備荒貯蓄とが結び付けられることになった。
 
川崎平右衛門による肥料貸付のしくみ
図2-17 川崎平右衛門による肥料貸付のしくみ
湯浅淑子「武蔵野新田の助成政策」(大石学編『多摩と江戸』)
p.177の図をもとに作成。