養料金の貸付は、川崎の肥料貸付が開発した土地の広さを基準としていたのに対し、一軒ごとに均等に行われた。例えば、天明元年(一七八一)の大沼田新田は家数四七軒であったため、金一二両一分、永一八文五分五厘の養料金が支給され、各戸には金一分、永一一文三厘三毛ずつ配分されていた。一軒に支給される額は、養料金の元金の変動などにも左右されるが、明和年間(一七六四~七二)から天保年間(一八三〇~四四)の間では、金一分余であった(図2-18)。
図2-18 天明元年10月「武蔵野新田養料金御貸附小前帳」(史料集20、p.106)
養料金の返済は、やはり収穫した雑穀で行われ、引き継ぎ当初は、川崎の肥料貸付と同様に拝借相当額の返納が求められた。その後、次第に拝借額の一割程度、雑穀にして三升の返納ですむようになるが、天明八年(一七八八)以降は毎年五升とされた。同年に貯穀令が発せられた影響で、飢饉時の備えとして、一人あたり年三升を備蓄するのでは少ないとされたからである。こうした雑穀返済は、支給される養料金の額とくらべても、百姓にとって重いものではなかった。
返済穀つまり溜雑穀の保管場所は、川崎期の関野陣屋から変更され、当初はいくつかの村をまとめて設定された組合村で保管された。組合村は、榎戸新田組合(えのきどしんでんくみあい)(四四か村)、高倉新田組合(たかくらしんでんくみあい)(一三か村)、勘六新田組合(かんろくしんでんくみあい)(七か村)、岩岡新田組合(いわおかしんでんくみあい)(一七か村)の四つが確認され、小平市域にあった村々も、これらのうちのいずれかに含まれていたが、一八世紀末には各村で保管されるようになった。溜雑穀は、不作時の食料になるとともに、備蓄量が増えた場合は売却され、養料金の元金に加えられた。
以上のように、川崎の肥料貸付を原型とし、助成金を受け取ることと雑穀を蓄積することを組み合わせた制度が、養料金并溜雑穀制度(ようりょうきんあわせたまりざっこくせいど)である。この制度を支える養料金の元金は当初、代官上坂政形が幕府より拝借した金一三〇〇両と、川崎がやはり幕府から拝借した金四〇六〇両の、計五三六〇両であった。明和四年にこれらの拝借金が返済期限を迎えると、それまでに蓄積されてきた溜雑穀の売却代金と、それを利殖して得られた金の合計四二二三両二分、永二八文七分八厘四毛が、新たに養料金の元金とされた。すなわち、同年以降、養料金并溜雑穀制度は幕府の支出を必要としなくなるが、新たな元金も、もともとは幕府からの拝借金を利殖したものであり、幕府による救済制度としての本質が変化したわけではなかった。