古村としての小川村

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享保期に開発された武蔵野新田では、幕府による御救いの後退後も、比較的手厚い保護を受けていたが、小川村に導入された貯穀制度は百姓の支出によるものであり、困窮者救済に関する負担が、幕府から百姓に転嫁されたことをよく示していた。つまり、幕府の御救いの後退は、小川村において、とくに顕著な問題であった。こうした状況下、小川村では、開発人の小川家が中心となって、ようやく定着した百姓たちが困窮せずに、当村で引き続きくらしを維持していけるようにするための取り組みが行われた。それは、村および周辺地域を振興する試みで、予め整理すれば、振興策の内容は、①市場・流通、②農業生産という二つの局面にわたるものであった。以下では、こうした試みの具体的なようすと結果について述べることにする。