市場の開設

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享保一九年(一七三四)五月、小川村の百姓一同は、名主小川弥次郎(おがわやじろう)に、つぎのようなことを願い出た。すなわち、当村は近年困窮して、百姓の生活も苦しくなり、年貢や七か所への伝馬継ぎの負担を勤めることが難しくなってきた。もし、小川村に市場が立てば、当時開発途上であった小川新田ともども賑わい、百姓の稼業も順調となり、年貢や役負担をつつがなく勤めることができる。よって、何とぞ小川村の市場開設を、弥次郎から代官に願い出てほしい、と。
 このように、彼らは、困窮している現状を打開し、自分たちが当地で生活し、百姓としての勤めを果たしていくためには、市場を開設し、村の振興をはかることが必要と考えていた。こうした願いをうけた弥次郎は、ときをおかずに、鈴木新田名主の鈴木理(利)左衛門(すずきりざえもん)と連名で、小川・鈴木新田両村での月三日ずつの市場開設を、代官上坂政形に願い出た。その際の願書には、許可が得やすくなると考えられたのか、両村(とくに小川村)での市場開設が許可されれば、自村にとってはもちろん、何よりも当時開発が進んでいた武蔵野新田の村々(「最寄新田場」)にとっても「御救」となることが強調されている(史料集一九、二七九頁、図2-19)。

図2-19 弥次郎・理(利)左衛門による市場開設願い
享保19年5月「(市場取立願)」(史料集19、p.279)

 大略を示せば、とくに南武蔵野の新田は小川村の左右(東西)を囲むように立地しているが、これら新田村の出百姓たちは、小川村で大方の必要物資を調達している。その際、仮に穀物などを相対で売買するにあたっては、江戸で各々が聞き及んだ相場を用いるので、必ずしも一律でなく、取引価格に高下があるように思う。そうであれば、僅かな価格差であっても、新田のさして裕福ではない百姓は困窮してしまう。市場開設が認められれば、市場に集まった諸商人らにより一律の相場が設定され、諸取引は円滑に進み、新田百姓の渡世の存続にもよいと記されている。
 以上のように、当時の小川村では、「村方賑(にぎわい)」などと表現される村の振興のため、小川家が中心となり、村の百姓と各地からの商人が出店して、雑穀や糠(肥料)など、いろいろな品物を取引するための市場開設が計画されていた(史料集一九、二八六頁)。そして、それにより、百姓の稼業が継続し、彼らが年貢や役を安定的に負担していけるようにすることが企図されていた。
 結局、周辺の武蔵野新田村々にとっての利点を強調したことが奏功したのか、享保一九年五月の弥次郎・理左衛門の願いは容れられた。元文四年(一七三九)六月の代官による許可は、市日は「勝手次第」、市場開催日数も月三日に限らなくともよいという、弥次郎らの裁量がかなり認められた内容のようであったが、同年八月には小川村が毎月二・一二・二二日、同じく鈴木新田が七・一七・二七日と決まった(史料集一九、二八三頁)。しかし、想定どおりには進まず、実際の開設に向けた動きは、明和六年(一七六九)にまでずれ込むこととなる。