このほかにも、他村より品物を売買にくる人に対し、がさつな振る舞いはしないこと、市場で他所の者から喧嘩・口論を仕掛けられてもやむを得ない場合以外は手出しせず、なるべく構わないようにすることなど、全八か条にわたる取り決めがなされており、当年に、市場開設に向けた動きが再び活発化したことがうかがえる。
こうした動きと深くかかわって提起されたのが、玉川上水の通船(つうせん)計画である。市場開設の場所などが取り決められた翌明和七年閏六月、小川東磻(おがわとうはん)(当時の当主小川弥次郎(おがわやじろう)の父で、享保一九年に市場開設を出願した弥次郎と同一人物)は、幕府の普請方役所へ玉川上水を利用しての通船を願い出た。
願書とともに提出された「玉川御上水通船仕用目論見帳(つうせんしようもくろみちょう)」という帳面によると、この計画は、小川村と四谷大木戸(現新宿区)ないしは内藤新宿天竜寺近所の間で、幅六~七尺、長さ六~七間の船二〇艘を往復させようとするもので、一か月で六往復の運行、荷物は一艘につき二五駄を積む予定であった(史料集二三、二九一頁)。なお、「駄」とは馬一匹に背負わせる荷物の量で、二五駄とは、馬二五匹に背負わせる荷物の量である。
積載が予定されている荷物は表2-9のとおりで、まず、江戸への下り荷物では炭・薪といった燃料、材木、木工製品、米穀類、野菜類のほか、絹、紬、木綿や青梅縞のような織物もみられる。東磻の願書によれば、これらの品物は全てが小川村の産物だったわけではなく、玉川上水の近くの村はもちろんのこと、各地から、小川・八王子・青梅・伊奈・五日市・府中・所沢の市場へ集められたものである。一方、江戸からの上り荷物では、米糠や酢・醤油・酒・味噌・塩・小間物類など、肥料や日用品が目立つが、これらもやはり小川村から右の市場の周辺村に運ばれることが想定されていたであろう。
表2-9 通船積載予定荷物 | |
下り荷物(江戸への荷物) | 上り荷物(江戸からの荷物) |
炭、薪、板貫、杉皮、屋根板、諸材木、白箸、下駄、足駄、挽木、垣そだ類、荏胡麻油、米、雑穀、大豆、小豆、大麦、小麦、絹、紬、木綿、苧糸類、青梅嶋(縞)、樹木、野菜類、紙、たばこ、索麺、御馬飼料 | 米糠、小米、荏胡麻、水油類、酢、醤油、酒、味噌、塩、木綿、網、苧糸、綿類、一切荒物、瀬戸物、小間物類、塩、肴、干物類、紙、たばこ |
明和7年閏6月「玉川御上水通船仕用目論見帳」(史料集23、p.291)より作成。 |
図2-20 「玉川御上水通船仕用目論見帳」の内容
江戸への「下り船」と江戸からの「登船」(上り船)の積載予定荷物が記されている。
このように、小川東磻による玉川上水の通船計画は、青梅・八王子など多摩郡西部や所沢といった入間郡の一部と江戸とを結ぶ流通路を構築し、小川村をその結節点とすることを企図したものであった。それは、小川村の市場に、周辺の他の市場一般に解消されない、流通の重要拠点としての特別な位置を与えようとする構想にほかならず、市場開設による村の振興策と連動するものであった。
加えて見逃せないのは、通船実現による利点である。やはり要求を通しやすくするための配慮であろうが、東磻は、通船の実現は小川村のみならず、とくに周囲の武蔵野新田村々にとっても有益であると強調している。すなわち、これらの村々は馬数が少なく、雑穀を江戸に出すのには運賃が高くつき、ゆえに不利な売買を強いられてきた。そのうえ、この辺りの村々では糠を肥料として用いねばならないが、近年糠の値段が高騰し、江戸からの運賃も高い。しかし、通船が許可されれば、輸送コストは減少し、糠の代金も下がる、としている。
収穫した雑穀を売り、肥料の糠を買うというのは、武蔵野新田だけでなく、当時の小川村の百姓のくらしの根幹をなすものであった。通船計画は、輸送コストを削減することで、販売する雑穀や購入する糠の値段を安く抑えることを可能にするという点で、小川村や武蔵野新田村々での百姓のくらしを下支えしようとするものであった。
しかし、この計画は結局不許可とされ、実現しなかった。また、小川村に開設された市場も不活発で、見込まれたほどの賑わいにはいたらなかった。