つぎに、農業生産にかかわる振興策として、小川家による甘薯(サツマイモ)の試作と水田の造成計画をみていく。まず、甘薯の試作であるが、救荒作物であった甘薯の栽培は、菜種や唐胡麻などとともに、享保改革における殖産興業政策の一環として奨励され、開発期の武蔵野新田でも栽培されたが、うまくいかなかった。しかし、天明二~五年(一七八二~八五)、当時千川上水請負人であった小川弥次郎は、千川上水の水番所から命じられ、甘薯の試作を請け負うことになった。
千川上水の水番所が小川弥次郎に、甘薯の試作を指示するにいたった経緯は不明だが、天明二年には関前新田の水番所脇で試作を行い、同年一〇月に同人が「相応ニ出来仕り候」と、一定の収穫があったことを番所に上申していることが確認できる(史料集一九、三〇頁)。続く天明三・四年(一七八三・一四)にも一定の収穫があったが、弥次郎の報告によれば、両年の作柄は「甚(はなは)だ不出来」で、試作のための肥料代など、番所の支出に見合わないとしている(史料集一九、三三頁)。結局、この後も大量の芋が腐ったり、枯れたりする事態に見舞われ、経費に応じた成果はえられなかった。
このように、小川弥次郎は、小川村や周辺の武蔵野新田村々の農業生産に、凶作に強い新たな農作物である甘薯を導入するため、千川上水の水番所からその試作を請け負ったが、十分な成果はえられなかった。ただし、近世後期には、小川村をはじめとする現在の小平市域の各村で、甘薯が栽培されるようになっていた。