水田の造成計画

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つぎに、水田造成計画についてみると、現在の小平市域にあった村々の耕地の大部分は畑であったが、村々の中には稲作を望む者があり、ゆえに水田の造成やその維持のためのさまざまな取り組みが行われた。例えば、大沼田新田は元文五年(一七四〇)から飲み水の残水を用いて田作りを開始、延享元年(一七四四)一〇月には、恐らく同村が中心となり、南武蔵野新田に多くの水田をひらくため、多摩川から田用水を引くことを願い出ている。
 この願書では、水田の開発によって、百姓が「丈夫」に「相続」できる、つまり安定的にくらせると主張されているが、すべての百姓が水田開発に積極的だったわけではない。実際、鈴木新田では二町四反三畝一二歩の土地が元文検地によって田とされたことについて、年貢負担が重くなるとの懸念からか、やむを得ないとする認識があった。このように、水田の造成に対しては賛否両論があったが、文政二年(一八一九)、当時の小川家当主小太夫(こだゆう)は、既存の畑を水田に変える(「畑田成(はたたなり)」とする)計画を構想した。
 その計画を記した文書の内容は、おおよそ次のようなものであった。すなわち、武蔵野新田は地味が悪く、水もちもよくないので水田がなかなかできず、かつての元文検地で田とされた場所も、今では畑となり、幕府の収得する年貢量も減っている。そうしたところ、近頃、村々の飲み水の残水が落ちる場所は「湿地」となり、水田になるとみられる場所が数か所ある。しかし、「頑愚」の百姓らは、田ができると、年貢も重くなり「難儀」すると思い込んでおり、「国益」にもなることを打ち捨てて置いてある状況で、幕府にとって「御不益」と考えるので、内々に上申する。土地のようすをよく知る者に世話役を命じられ、その者から話せば、百姓らも納得し、見込みどおりの田もできるだろう、と。
 そして、こうした「畑田成」ができそうな村として、小川村や小川新田など、玉川上水から取水する二二か村を列挙している(表2-10)。さらに、多摩郡小曾木村(おそぎむら)から谷川を引き取って、箱根ヶ崎村(はこねがさきむら)の辺りに流し込めば、村山郷一四・五か村でも多くの「畑田成」ができるとの見込みも補足している(史料集二五、二六七頁)。
表2-10 畑田成の造成が見込まれた22か村
砂川村小川村小川新田
野口村大沼田新田前沢新田
柳窪新田野中新田中藤新田
平兵衛新田谷保新田戸倉新田
南野中新田鈴木新田廻り田新田
関野新田梶野新田小金井新田
境新田保谷新田保谷村
田無村
*太字は現在の小平市域の村。
*文政2年「畑田成之儀ニ付申上候書付」(史料集25、p.267)より作成。

 このように、小川小太夫は、小川村や周辺地域の百姓らが、当地で「相続」、つまりくらしていけるように、既存の畑を田(畑田成)に造成し直す計画を構想した。しかし、村々には、畑を水田とすることによる年貢負担の増大を懸念し、これに消極的な態度を示す者もあったため、小太夫はこうした再開発が「国益」にもつながるという論理をもって、自身の計画を「内々」に幕府に上申したのである。その後の展開は詳しく知りえないが、小川村や周辺村々で大規模な畑田成が造成された、あるいはこれらの造成工事を小川小太夫が主導したような形跡はなく、彼の構想が実現し、十分な成果を挙げることはなかったとみてよい。