新たな救済方法の導入

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小川村では、幕府による御救いだけでなく、開発人の小川家による困窮百姓の救済がしばしば行われていた。救済の方法は大きく二通りあり、一つは自らが返済責任を負って、幕府・代官から困窮百姓を助成するための資金を借り入れる、今一つは自分で資金を拠出して、困窮者に融通するというものであった(第一章第一節)。
 これらは、いずれも小川家の負担によって成り立つものであったため、幕府の御救いが後退し、困窮者救済の負担が現地の村に転嫁されれば、小川家にかかる負担はいっそう過大なものとなる。それゆえに、小川家は地域振興に取り組む一方、困窮者救済を同家ばかりが中心的に引き受けるのではなく、「村」という共同組織として引き受け、百姓同士の助け合いをうながそうとした。このようすがよくわかるのが、つぎにみる明和七・八年(一七七〇・七一)の村方騒動である。