こうした幕府の態度は、御救いの後退という現象をよく示しているが、夫食拝借願いを却下された名主小川弥次郎(東磻の子)は、さらに幕府と交渉していく一方、村の百姓らに、自分たちの助け合いによって、この危機を乗り越えようと提案したところ、一部の百姓の反発を招き、村方騒動が起こった。その際、明和八年(一七七一)正月以降に作成されたとみられる訴状で、小川弥次郎はつぎのように主張した。
すなわち、夫食拝借願いが却下されたため、弥次郎は、村内の富裕な百姓たちが協力し、幕府役所からの御救いがなるべく少なくなるよう努力しようと百姓たちに持ちかけたが、聞き入れてもらえなかった。他村では身の丈に応じて金子を出し、百姓相互で助け合っている所もあるが、当村でも、こうした助け合いなくしては、百姓の「相続」は心もとない。当年のような凶年は稀なので、百姓が助け合って、なんとかくらしていけるようにと思い、さまざまな世話をしたが、百姓からはかえっていろいろな悪口を言われる。そのうえ、夫食拝借が認められなかったのは、弥次郎に情け心がないからとされ、さらに、じつは弥次郎は「御拝借金」一六両を受け取っているが、それを皆に分けないだけだ、などと百姓に触れ回られ、世間体が立たない、と。
以上のように、弥次郎は、自らも含めた百姓たちの助け合いで、この危機を乗り越えようとしていた。それは、開発人小川家が中心となって困窮百姓を救済するという当村の開発以来みられたかたちではなく、村として困窮百姓の救済を引き受け、くらしに比較的余裕のある百姓に相応の負担をさせて、当座の生活資金や食糧を援助させるという救済のかたちであった。
しかし、弥次郎が夫食拝借願いを却下されながら、百姓に新たな負担を強いる面のある救済方式を提案してきたことに対しては、村内の二〇名ほどの百姓が激しく反発した。それがこの騒動で、弥次郎の訴状には、すでに述べたような悪口のほかにも、とかく弥次郎の指示に逆らうような百姓たちの行動が詳しく述べられている。たとえば、年貢を期日までに納入しない、毎年正月の小川家への年礼(正月に全ての小川村百姓が大麦二升を持参し、小川家に年頭の挨拶に行く儀礼)に応じない、正月の門松を立てない、などである。これに対して弥次郎は、当村の百姓らはみな小川家の「家僕」同然の者たちであり、村に住まわせてもらうなど、小川家から受けてきた「恩分」を顧みない行動だと強く非難した(小川家文書)。
結局、この騒動は、明和八年二月に百姓二〇名が弥次郎に対して、詫びを入れるかたちで決着した。ただし、同月には、幕府からの夫食貸しが認められ、金一五両一分、永一八一文八分二厘が下付されたため、弥次郎が提案したような救済は実現しなかった。しかしながら、この騒動は、村が引き受け、百姓同士が助け合う困窮者救済の方式が、小川村で取り入れられていくきっかけとなった出来事であった。
図2-21 年礼を記録した天保8年正月「年頭帳」
(小川家文書)