開発人の危機と村

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その一方で、開発人小川家は、自身が負担を引き受けるかたちでの困窮者救済や、幕府の公金貸付(幕府が利殖のため、百姓や町人に半ば強制的に金を貸し付けること)により、経営が悪化し、困窮する状況となった。
 たとえば、安永五年(一七七六)四月、小川弥次郎は、百姓の救済のために代官所から金三〇両を拝借し、これを組頭二名に又貸しした。しかし、百姓からの返済は順調に行われず、小川家の負債となったようである。そして、安永八年には、小川家から代官所への債務返済が滞ってしまう。そのため、小川家の出身村である岸村(現武蔵村山市)の年寄で、「親類」の五郎右衛門(ごろうえもん)(村野家)という者が、小川家の借金を肩代わりしている。ここから、一八世紀後半の段階で小川家の経営は悪化していたが、自らの血縁関係を頼れば、なお苦境をしのぐことができたことがわかる(小川家文書)。
 しかし、一九世紀前半の段階となると、事情は相当変わってくる。文化二年(一八〇五)正月、小川弥四郎は江戸の馬喰町貸付会所から金五九両を五か年季で借用した。利息は年一割。借用目的は明らかではないが、この金五九両は、弥四郎が望んだというよりは、利殖のために幕府側が村々に半ば強制的に貸し付けたものと考えられる。弥四郎は、この借用金五九両をさらに村内外の百姓に貸し付けるなどして、利息を付けて返済しなければならなかったが、やがて滞り、文政五年(一八二二)には、利息の未返済額がかさんでしまった。このとき、小川家の経営は、場合によっては村の名主を退役せねばならないほどに「困窮」していた(小川家文書)。
 そこでとられた方法は、毎月村の組頭に、小川家が当時所持していた水車から上がる利益金三分ずつ預け、これを組頭たちが運用して増やし、返済にあてる、というものであった。そして、組頭たちは、どのような変事があろうとも、金を減らさないよう取りはからうことを、代替わりした小川小太夫に約束している。
 なお、その後、この負債については、文政九年に、当時小川村を支配していた代官所から借り換えが行われ、利息分は五か年賦で返済することが、小太夫たちから嘆願されていることが確認できる。
 このように、一九世紀前半段階では、開発人である小川家と血縁関係のある家ではなく、組頭に代表されている村が、小川家の負債処理を担い、同家の維持・存続をはかるようになっていた。すなわち、小川家は、開発人として百姓のくらしを下支えするのではなく、かえって村から救済されるようになっていたのである。