現在の小平市は、近世に開発された村によって構成されている。人びとが各地域から移住し、支配領主がそれを公的に把握するようになったのは、近世以降のことなのである。では、近世のこの地域には、どのくらいの家があり、どのくらいの人びとが住んでいたのだろうか。ここではまず、この地域に人びとが定住してからの家数と人口の移り変わりをみてみよう。
現在の小平市にあたる地域に人びとが定住しはじめたのは、小川村が開発された明暦年間(一六五五~五七)頃からと考えられる。しかし、開発によってすぐに人びとが定住できたわけではなく、小川村に入村してもなかなか生活が立ちゆかず、開発を断念して村を出ていく百姓も多かった(第一章第一節4)。そのため、一七世紀段階における家数や人口を正確に把握することはむずかしい。しかし明暦四年(万治元年・一六五八)二月に作成された、開発にかかわる証文には七六名の百姓名が記されており、当時の小川村には七六軒ほどの家があったと考えられる。また、小川村の家数と人口を公的に記した最も古い史料は、正徳三年(一七一三)八月付けで作成された「武蔵国多麻郡小川新田村諸色差出帳」である(史料集一、一二頁)。この帳簿によれば、正徳三年時点での小川村の家数は、本百姓(ほんびゃくしょう)・脇百姓(わきびゃくしょう)・水呑(みずのみ)のほか寺二軒と社家一軒、合計二〇五軒であり、人口は男四七九人(このうち下男六九人)・女四二九人(このうち下女三六人)、このほか、寺社に僧四人・男八人(このうち下男六人)・女三人(このうち下女一人)がおり、合計九二三人となっていた。
享保年間(一七一六~三六)には、幕府の新田開発政策を契機に、小川村周辺にも村々が成立し、これにともなって定住する人びとも増えていった。元文元年(一七三六)には代官上坂安左衛門政形(うえさかやすざえもんまさかた)による検地が新田村々で一斉に実施されたが、各村で作成された検地帳によれば、鈴木新田九二軒、野中新田与右衛門組五一軒、同善左衛門組四五軒、大沼田新田三〇軒の「屋敷」が確認できる(第一章第二節3~5)。小川新田の元文検地段階での屋敷数は不明であるが、宝暦九年(一七五九)四月の「村鑑帳(むらかがみちょう)」には、家数七七軒とある(史料集一、八六頁)。また、元文検地が実施されたとき、廻り田新田に居住者はいなかった(第一章第二節6)。廻り田新田に人が住みはじめるのは寛保・延享年間(一七四一~四七)頃であり、明和年間(一七六四~七二)以降になって、ほぼ一四~一六軒の家が定住するようになった。正徳三年以降の村ごとの家数を示したものが表2-11、人口を示したものが表2-12である。
新田開発時、各地から百姓が順次入村して、一八世紀後期には各村の家数はほぼ安定した。同年の史料が残されていないため、各年の数値を正確に知ることはむずかしいが、一九世紀半ばには、この地域の家数は五八〇~五九〇軒ほど、人口は三三〇〇~三四〇〇人ほどであったと考えられる(表2-13)。近世では一般に、村の家数はほぼ安定し、人口は漸次増加していくが、ここでも同様の状況がみられる。
表2-13 19世紀中期の家数と人口 | |||||
村名 | 家数(軒) | 人口(人) | 年代(西暦) | ||
小川村 | 214 | 1212 | 天保9年 (1838) | ||
小川新田 | 88 | 485 | 安政5年 (1858) | ||
鈴木新田 | 115 | 698 | 安政2年 (1855) | ||
野中新田善左衞門組 | 50 | 270 | 天保9年 (1838) | ||
野中新田与右衛門組 | 58 | 326 | 天保9年 (1838) | ||
大沼田新田 | 46 | 273 | 天保6年 (1835) | ||
廻り田新田 | 15 | 92 | 天保11年 (1840) | ||
合計 | 586 | 3356 | |||
天保9年2月「村柄明細書上帳」・安政6年3月「家数人別増減帳」・安政2年3月「武州田無村組合村々地頭性名其外書上帳」・天保9年3月「野中新田両組分村差出帳之写」・天保6年3月「人別増減帳」・天保12年3月「家数人別増減書上帳」(史料集1、p.67・197・137・120・208・244)より作成。 |
家数・人口が最も多い小川村は、近世後期にいたるまでに、二一〇~二二〇軒台の家数となっていた。一方で、人口は漸次増加し、安政四年(一八五七)九月の「村差出明細帳(むらさしだしめいさいちょう)」には、一二二五人と記されている(史料集一、六九頁)。
近世の一般的な村は、村高四〇〇~五〇〇石、面積五〇町歩、人口四〇〇人といわれているが、この数値に近い村は野中新田与右衛門組で、村高は四六六石余、面積は五〇町余、人口は三〇〇~四〇〇人ほどである。しかし、同じように四〇〇人程度の人口を抱える小川新田の村高は六七六石余、面積は二一〇町余である。新田村であり、また畑作地帯でもあったこの地域の村々は、「一般的」といわれる村にはそぐわないことも多い。各村の家数や人口は、さまざまであった。