表2-14 大沼田新田の家数・人数等の変化 | |||||||||
年代(西暦) | 家数 | 人数 | 男 | 女 | 奉公人 | 馬 | 牛 | 家族人数平均 (単位:人) | |
男 | 女 | ||||||||
宝暦 3年 (1753) | 40 | 140 | 74 | 66 | - | - | 5 | - | - |
宝暦11年 (1761) | 44 | 151 | 66 | 85 | 8 | 5 | - | - | - |
安永 8年 (1779) | 47 | 173 | 91 | 82 | 11 | 4 | - | - | 4.12 |
安永10年 (1781) | 46 | 180 | 100 | 80 | 14 | 6 | - | - | 4.32 |
天明 3年 (1783) | 46 | 202 | 107 | 95 | - | - | - | - | - |
寛政 3年 (1791) | 49 | 207 | 106 | 101 | 11 | 5 | - | - | 4.62 |
享和 2年 (1802) | 45 | 215 | 121 | 94 | 19 | 7 | 7 | 0 | 4.82 |
文化11年 (1814) | 45 | 229 | 122 | 107 | - | - | - | - | - |
文政 5年 (1822) | 45 | 261 | 152 | 109 | 50 | 14 | 10 | 0 | 5.8 |
天保 3年 (1832) | 45 | 268 | 160 | 108 | 46 | 11 | 6 | 0 | 5.93 |
天保 5年 (1834) | 46 | 275 | 156 | 119 | 36 | 16 | 6 | 0 | 6.09 |
天保13年 (1842) | 46 | 279 | 149 | 130 | 36 | 16 | 7 | 0 | 6.27 |
弘化 4年 (1847) | 46 | 321 | 177 | 144 | 28 | 15 | 6 | 0 | 6.22 |
嘉永 5年 (1852) | 46 | 262 | 131 | 131 | 26 | 14 | 5 | 0 | 6.07 |
文久元年 (1861) | 46 | 268 | 132 | 136 | 18 | 10 | 5 | 2 | 6.21 |
明治元年 (1868) | 46 | 282 | 138 | 144 | 8 | 4 | 2 | 1 | 6.27 |
明治 3年 (1870) | 45 | 283 | 140 | 143 | - | - | 1 | 1 | - |
*當麻家文書(D-4-1、F-1-1・2・4、B-1-1、F-1-7・12、B-1-6、F-1-15・17・18・24・28・31・39・44、D-4-14)より作成。 *「奉公人」の「男」「女」は、村全体の「男」「女」それぞれの数値の内訳。 *「-」は記載がないものを示す。 *「家族人数平均」は一軒あたりの家族の人数の平均値。 |
大沼田新田には、宝暦一一年(一七六一)から慶応四年(明治元年・一八六八)までの一〇八年間、四四冊の宗門人別帳が残されている。それ以前の宝暦三年(一七五三)には家数四〇軒で、当時の人口は一四〇人、男七四人・女六六人であった。その後、家数は若干増減するものの、一九世紀はじめ、遅くとも天保五年(一八三四)に四六軒となってからは、ほぼ固定する。このうち、村の唯一の檀那寺である泉蔵院(せんぞういん)を除くと、大沼田新田の家数は四五軒であった。
家数が固定していくのに対して、人口は順次増加していった。天明三年(一七八三)には二〇〇人をこえ、約四〇年後の文政五年(一八二二)には二六一人となった。その後もほぼ増加傾向にあり、最大の人口となったのが弘化四年(一八四七)で三二一人であった。その後、幕末期には二六〇~二八〇人となっていた。男女の内訳をみると、どちらも増加しているが、男性が多かった一八世紀後期以後、文久元年(一八六一)にいたり、男性一三二人、女性一三六人で、女性の方が若干多くなり、以後この状態が継続している。
家数が固定し、人口が増えたことは、一軒内の家族の人数が増加したことを意味する。すなわち、安永八年(一七七九)には一軒あたりの家族の人数の平均が四・一二人であったが、しだいに増加し、天保五年(一八三四)には六・〇九人となった。その後も増加して、幕末期には六・二〇~三〇人ほどとなった。
大沼田新田は奉公人を抱える家が何軒かあり、奉公人の数の推移もわかる。宝暦一一年、奉公人は男性八名・女性五名の一三名であったが、しだいに増加し、最大の奉公人数となった文政五年は六四名、うち男性五〇名・女性一四名を数えることができる。一九世紀前期の大沼田新田には、五〇~六〇人程度の奉公人がおり、特に男性の奉公人が三〇~四〇人で半数以上を占めている。この奉公人のほとんどが名主弥左衛門家で働いている年もあり、弥左衛門の酒造業に携わる奉公人が多いと考えられる。奉公人は男性が中心で、その多くは大沼田新田の百姓ではなかった。そのため、大沼田新田に家がある居住者でいえば、やはり女性の数が増加していたことになる。
つぎに廻り田新田をみると、家数は一五~一六軒で固定したのに対し、大沼田新田と同様、人口は少しずつ増加していることがわかる(表2-15)。また、宗門人別帳には各家で所有していた馬の数も記載されているが、文化六年(一八〇九)には、村全体で一〇疋の馬を所有していた。
表2-15 廻り田新田の家数・人数等の変化 | ||||||||||
年代(西暦) | 家数 | 人数 | 男 | 女 | 奉公人 | 他所へ奉公 | 馬 | |||
男 | 女 | 男 | 女 | |||||||
明和6年 (1769) | 14 | 61 | 32 | 29 | - | - | - | - | - | |
安永8年 (1779) | 16 | 65 | 40 | 25 | 5 | 4 | 3 | 2 | 4 | |
寛政元年 (1789) | 15 | 67 | 43 | 24 | 7 | 3 | 0 | 2 | 6 | |
寛政11年 (1799) | 15 | 74 | 42 | 32 | 4 | 3 | 0 | 1 | 7 | |
文化6年 (1809) | 15(+1) | 74 | 37 | 37 | 7 | 4 | 3 | 3 | 10 | |
文政2年 (1819) | 15 | 84 | 45 | 39 | 9 | 5 | 3 | 1 | 6 | |
文政12年 (1829) | 15 | 94 | 47 | 47 | 5 | 2 | 2 | 2 | 4 | |
天保10年 (1839) | 15 | 94 | 46 | 48 | 5 | 2 | 0 | 1 | 4 | |
嘉永2年 (1849) | 15 | 86 | 47 | 39 | 6 | 0 | 0 | 0 | 3 | |
安政6年 (1859) | 15 | 90 | 46 | 44 | 4 | 1 | - | - | 1 | |
明治2年 (1869) | 15 | 103 | 53 | 50 | 12 | 4 | - | - | 1 | |
*斉藤家文書(F-1-1・22・31・42・52・62・71・81)・山田家文書(F-1-1・4・9・17)から作成。 *文化6年の家数の「(+1)」は店借。 *「奉公人」は他村からきた奉公人、「他所へ奉公」は家族が他所へ奉公に出ているものを示す。 *「奉公人」「他所へ奉公」の「男」「女」は、村全体の「男」「女」それぞれの数値の内訳。 *「-」は記載がないものを示す。 |