一方で、文右衛門家のように、父親である前当主が存命のまま、息子などに当主を譲り、隠居しているような事例もある(図2-23)。大沼田新田で百姓代を勤めた文右衛門家は、天明元年(一七八一)年に忰善吉が当主として記されていたが、翌年には再び父文右衛門が当主となった。善吉は天明八年以後、その名がみられず、三〇歳代前半で死去してしまったのであろう。善吉と妻まつの間には、瀧五郎とひさ、二人の子がいたが、瀧五郎は二歳で夭折した。ひさは一五歳の時に婿を取っており、この時、「ふさ」と名を変えた。婚姻を契機とした改名であったのだろうか。婿の文左衛門は、寛政一〇年(一七九八)、二五歳の時に当主として、宗門人別帳に記されるようになった。この時点ではすでに、かつ、文吉という二人の子がいた。文右衛門にとってはひ孫にあたる。その後、文右衛門の名がみられるのは、享和二年(一八〇二)、八二歳までである。忰を失い、また孫息子も失っていた文右衛門であるが、孫娘に婿を取ることによって、無事に家を継がせることができたのである。
図2-23 文右衛門家系図
大沼田新田の宗門人別帳より作成。