血縁関係で父から息子へ家が相続される場合とは異なり、家の跡継ぎがいない場合には、他家あるいは他村から相続者を求めることもあった。相続者は単身とは限らず、夫婦あるいは子どもも一緒に、すなわち、家族全員で一つの家を相続することもあった。
廻り田新田の次郎兵衛家は、天明三年(一七八三)に当主次郎兵衛が死去し、翌天明四年には妻せんが「次郎兵衛後家」として、当主となっていた。忰に孫市がいたが、この年は宗門人別帳に名前も記されていない。奉公にでも出ていたのであろうか。翌天明五年には、孫市が当主として記されているものの、長くは続かず、孫市の弟喜八が二年後の天明七年に当主となった。喜八三〇歳のことである。寛政二年(一七九〇)、喜八は家名である次郎兵衛を名乗るものの、妻をむかえることもなく数年をへた後、寛政九年を最後に宗門人別帳からはすがたを消し、翌寛政一〇年、せんが再び当主となった。せんは七一歳、このままでは次郎兵衛家は潰れてしまうことになりかねない。そこで寛政一一年、次郎兵衛・妻やす・娘みよ・忰富蔵の四人を、次郎兵衛家にむかえている。この次郎兵衛一家とせんとの間にどのようなつながりがあったのかは不明である。たとえ親戚でなくても、血縁などには左右されず、「次郎兵衛家」を継続させることが必要なのである。このような事例も決して珍しいことではない。後述する大沼田新田の女性当主、はつの事例も同様である。