近世の農業は、家族労働による小農経営(しょうのうけいえい)の形態をとることが一般的である。「小農」とは一般に、自らが所有する土地で、家族労働によって農業経営を行う農民のことである。近世の村では、夫婦と子どもの核家族、または夫婦の親や子どもが同居する直系家族が一般的であり、ほとんどの農家は家族全員の共同労働による小農経営で成り立っていた。家族の共同労働が基本であるため、農家の女性は武家にくらべて、相対的に地位が高かったといわれる。また、家の「当主」といえば、男性が基本と考えられがちであるが、農家では女性が当主になることも珍しいことではなかった。家の代表者として、家の存続のために女性たちも力を尽くしていたのである。女性当主はほとんどの場合、帳簿などに「
○○後家」と記載された。まず、表2-16によって小川村の女性当主をみてみよう。
表2-16 小川村の女性当主数 |
年代 | 人数 (単位:人) |
安永7年(1778) | 6 |
天明3年(1783) | 8 |
天明7年(1787) | 1 |
寛政5年(1793) | 3 |
享和2年(1802) | 4 |
文化8年(1811) | 5 |
文化9年(1812) | 4 |
文化10年(1813) | 6 |
文化12年(1815) | 6 |
文化14年(1817) | 7 |
文政2年(1819) | 11 |
弘化2年(1845) | 8 |
安政4年(1857) | 15 |
小川村の宗門人別帳より作成。 |
小川村の宗門人別帳では、安永七年(一七七八)に六名の女性当主が確認できるのをはじめとして、天明三年(一七八三)には八名、その後増減して、文政二年(一八一九)には一一名が記されている。小川村の家数は二一〇~二二〇軒程度であり、二〇軒に一軒が女性当主の家、ということになる。安政四年(一八五七)には一五人の女性当主が記されている。
大沼田新田の女性当主は、宗門人別帳で確認できる一〇八年間で、毎年二・一六名の女性当主がいたことがわかる(表2-17)。大沼田新田の近世後期の家数はほぼ四六軒であるから、村全体での女性当主の割合は一割弱となる。年代別に見ると一七〇〇年代後半は一・三三名、一八〇〇年代前半は二・一九名、一八〇〇年代後半は二・七五名と増加傾向にある。天保一五年(弘化元年・一八四四)以降は四名の女性当主がいることも珍しくなく、最も多い年は慶応三年(一八六七)の五名である。
表2-17 大沼田新田の家数と女性当主数 |
年代 | 家数 | 女性当主数 | 平均 |
宝暦11年(1761) | 44 | 1 | 1.33 |
明和2年(1765) | 45 | 1 |
安永8年(1779) | 47 | 2 |
安永9年(1780) | 47 | 4 |
天明元年(1781) | 46 | 3 |
天明2年(1782) | 46 | 2 |
天明8年(1788) | 46 | 0 |
寛政3年(1791) | 49 | 0 |
寛政5年(1793) | 48 | 0 |
寛政7年(1795) | 46 | 0 |
寛政10年(1798) | 45 | 2 |
寛政11年(1799) | 44 | 1 |
享和2年(1802) | 45 | 1 | 2.19 |
文化元年(1804) | 45 | 1 |
文化5年(1808) | 45 | 1 |
文政5年(1822) | 45 | 2 |
文政12年(1829) | 46 | 2 |
天保3年(1832) | 45 | 2 |
天保5年(1834) | 46 | 2 |
天保6年(1835) | 46 | 2 |
天保8年(1837) | 46 | 3 |
天保9年(1838) | 46 | 2 |
天保10年(1839) | 46 | 1 |
天保11年(1840) | 46 | 2 |
天保13年(1842) | 46 | 2 |
弘化元年(1844) | 46 | 4 |
弘化2年(1845) | 46 | 4 |
弘化4年(1847) | 46 | 4 | 2.75 |
嘉永3年(1850) | 46 | 2 |
嘉永4年(1851) | 46 | 2 |
嘉永5年(1852) | 46 | 3 |
嘉永6年(1853) | 46 | 3 |
安政元年(1854) | 46 | 3 |
安政2年(1855) | 46 | 4 |
安政3年(1856) | 46 | 4 |
安政5年(1858) | 46 | 2 |
安政6年(1859) | 46 | 1 |
安政7年(1860) | 46 | 1 |
文久元年(1861) | 46 | 1 |
文久3年(1863) | 46 | 3 |
慶応元年(1865) | 46 | 3 |
慶応2年(1866) | 46 | 3 |
慶応3年(1867) | 46 | 5 |
明治元年(1868) | 46 | 4 |
*大沼田新田の宗門人別帳より作成。 *単位は、家数:軒、女性当主数:人、平均:人。 |
大沼田新田の女性当主について、当主になった年齢や期間を示したものが表2-18である。一〇八年間で二五名の女性当主が確認できる。史料的制約もあり、おおよその動向となるが、女性が当主となる年齢は四〇歳代が最も多い七名であり、三〇歳代から五〇歳代に当主となった者は一八名で、全体の七割に及ぶことがわかる。年代による際だった変化はないと考えられるが、特に寛政一〇年(一七九八)に「ゆり」が一四歳で女性当主として記載されていることは目をひく。一四歳の女子であっても、当主として宗門人別帳に記すことは問題とはされなかったのであろう。この時期は当主として宗門人別帳に記載されることに実質的な意味はなく、村の家数を揃える必要によって記されたものかもしれない。
表2-18 大沼田新田の女性当主 |
| 肩書 | 名前 | 年齢 | 期間 | |
1 | 伝助後家 | かや | 39 | 宝暦11年(1761) | 1年 |
2 | 定右衛門後家 | みな | 34 | 明和2年(1765) | 1年 |
3 | (孫兵衛より分家ヵ) | さん | 42-43 | 安永8年(1779)-安永9年(1780) | 2年 |
4 | - | とり | 60-63* | 安永8年(1779)-天明2年(1782) | 4年 |
5 | - | ちか | 28-30 | 安永9年(1780)-天明2年(1782) | 3年 |
6 | - | そよ | 60 | 天明元年(1781) | 1年 |
7 | - | ゆり | 14 | 寛政10年(1798) | 1年 |
8 | 八右衛門後家 | きよ | 40-46 | 寛政10年(1798)-文化元年(1804) | 7年 |
9 | 小平次後家 | とら | 68 | 文化5年(1808) | 1年 |
10 | 利兵衛後家 | つや | 42 | 文政5年(1822) | 1年 |
11 | 助右衛門後家 | ちよ | 66 | 文政5年(1822) | 1年 |
12 | 与四郎後家 | りん | 38-43* | 文政12年(1829)-天保5年(1834) | 6年 |
13 | 孫兵衛後家 | なつ | 44-73* | 文政12年(1829)-安政5年(1858) | 30年 |
14 | 兵助後家 | とめ | 58-60 | 天保6年(1835)-天保8年(1837) | 3年 |
15 | 昇雲後家 | りせ | 34-35 37-44* | 天保8年(1837)-天保9年(1838) 天保11年(1840)-弘化4年(1847) | 2年 8年 |
16 | 金兵衛後家 | たみ | 31-32 | 弘化元年(1844)-弘化2年(1845) | 2年 |
17 | 金次郎後家 | まん | 48-51 | 弘化元年(1844)-弘化4年(1847) | 4年 |
18 | 兵助後家 | みな | 35-56~ | 弘化4年(1847)-明治元年(1868)~ | 22年~ |
19 | 佐次右衛門後家 | ちせ | 36-40 | 嘉永5年(1852)-安政3年(1856) | 5年 |
20 | 八右衛門後家 | なか | 58-59 | 安政2年(1855)-安政3年(1856) | 2年 |
21 | 金五郎後家 | はつ | 43-48~ | 文久3年(1863)-明治元年(1868)~ | 6年~ |
22 | 徳左衛門後家 | はつ | 59-63 | 文久3年(1863)-慶応3年(1867) | 5年 |
23 | 利兵衛後家 | とり | 52 | 慶応3年(1867) | 1年 |
24 | 佐兵衛後家 | ひさ | 56-57~ | 慶応3年(1867)-明治元年(1868)~ | 2年~ |
25 | 徳兵衛後家 | ふじ | 43 | 明治元年(1868) | 1年 |
*大沼田新田の宗門人別帳より作成。 *「年齢」欄について、初出年等から明らかに誤りと考えられるものがあり、初出年から算出した数値には「*」を付した。 *「年齢」「期間」欄について、明治期にも当主を続けたものについては「~」で示した。 *No.3「さん」は明和5年、No.13「なつ」は文化8年の相続が確認できるが期間は不明である。 |
表2-18のうち、当主の期間が一年のみである者は九名で、全体の三分の一以上となり、五年以内でつぎの相続人に交替している者は一八名である。ほとんどの女性当主は、当主として記された期間が短い。またほとんどの場合、夫の跡を継いでいるが、忰や父親の跡を継ぐこともあった。宗門人別帳の作成後に貼り付けられた付箋などによると、当主となった理由は夫の「死失」と考えられるものが多い。またつぎの相続人はほとんどの場合が長男であり、男子がいない場合は娘婿が相続している。なお、昇雲後家りせ、金兵衛後家たみの二例は、他家から相続人をむかえている。
一般的に、女性当主は男性当主の相続をうめるための「中継相続人」と位置づけられることが多く、表2-18からもそのような状況がみられる。しかしこのなかには、実質的に家を守っていたとみられる女性もいた。たとえば孫兵衛後家なつは三〇年当主を勤め、兵助後家みなは二二年以上、当主になっていた。