大沼田新田のなつ

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長期間当主であった二人の女性のうち、三〇年の長きにわたって家を守り続けた女性当主「なつ」を紹介しよう。なつは孫兵衛家の娘として生まれた。なつの名前が最初に宗門人別帳に記されたのは天明八年(一七八八)で、当時の孫兵衛家は当主孫兵衛四八歳、母さわ四六歳、いよ一二歳、まつ八歳、なつ三歳、合計五人の家族であった。なつの二人の姉のその後の消息は不明であるが、寛政三年(一七九一)の宗門人別帳には兄「松五郎」(後の万次郎)が記載され、以後孫兵衛家は四人家族となった。
 宗門人別帳の記載にはみられないが、なつは文政一二年(一八二九)に孫兵衛家の当主になる以前にも、孫兵衛家の当主になったことがある。文化八年(一八一一)七月のことであった。孫兵衛の忰万次郎は病身で農業ができず、薬種(やくしゅ)商売をしていた。そして孫兵衛は老衰で耕作ができず、親類組合とも相談のうえ、万次郎の妹なつに「家督相続」をさせることになった。万次郎自身は沼袋村(現中野区)の人別に加わることになったという(史料集一八、二〇八頁)。なつは二五歳、これによって孫兵衛家を継いだと考えられる。
 その後、文政五年の宗門人別帳では、なつ(三七歳)の夫孫八が当主として記載されている。なつの父孫兵衛、母さわ共に健在で、なつにはみよ、はつという二人の娘がいる。文化八年の家督相続後、孫八という婿を取り、孫八が当主になったのであろう。長女みよが七歳であることを考えると、なつは家督を相続してから、長くて四、五年の間は孫兵衛家の当主であったとも考えられる。
 しかし、ほどなくして再びなつが当主となるときがきた。文政一二年の宗門人別帳には「孫兵衛後家なつ」とあり、娘二人と忰二人が記載されている。なつ四四歳である。次男の吉五郎が五歳であることから、夫孫八は文政六・七年までは健在だったのだろう。なつは再び当主となり、四人の子を育てていくことになった。孫兵衛家の持高は天保五年(一八三四)には、一石三斗余から二石一斗余に、若干ではあるが増加し、一見すると家の経営も安定しているようにみえる。その後、安政五年(一八五八)、なつ六九歳(嘉永七年〈安政元年・一八五四〉の宗門人別帳では前年の記載よりも年齢が下がっているため、実際は七三歳と考えられる)までの三〇年間、なつは孫兵衛家の当主であり続けた。
 なぜこれほどまで長く当主となっていたのか。なつが当主であり続けた理由には、二人の忰の動向が深く関係していた。天保一四年九月の名主弥左衛門あての請書によれば、長男の弥太郎は日頃から農業を怠り、また素行に問題があるとして、以前から注意を受けていたが聞き入れなかったという。母の考えにそむいて遊び歩き、組合連中の言うことも聞かずわがままな行いをしていたこと、この年の正月には村内で喧嘩騒動を起こしたこと、名主宅で騒ぎを起したことなどが書かれている。弥太郎は、今後「母の意存に随い、組合の役介に相成らず様、心庭(底)相改め」、すなわち「母親の言うことを聞き、組合の厄介にはならないよう改心するように」と、名主弥左衛門から申し渡された(史料集一七、一三五頁)。証文には弟の吉五郎が差添人(さしそえにん)として連名している。弥太郎は当時二一歳であった。ところが翌天保一五年(弘化元年)七月、吉五郎が家出をし、「帳外(ちょうはず)れ」になってしまう(史料集一七、一六〇頁)。「帳外れ」とは、宗門人別帳には記載されない者、すなわち村に属さないとみなされた者である。さらに弘化二年(一八四五)の宗門人別帳には、弥太郎について、「当巳四月十一日家譲致し、同四月廿九日御訴え、弘化二巳年十一月三日長尋仰せ付けられ」、と記されている(當麻家文書)。四月一一日に一旦は家を継いだが、同月中に訴訟があり、一一月には「長尋」、すなわち行方不明扱いになってしまった。二人の忰は家を相続できる状態ではなかったのである。
 成人ともいうべき二人の忰がさまざまな問題を起こしていることで、母親であるなつが当主を勤めざるをえない事情があった。一方で、天保一四年の弥太郎の事件に際しては、母親の言うことを聞くように名主から弥太郎に申し渡されているなど、なつ自身の人格は、名主からも認められていたことが読み取れる。なつは女性であっても家を存続できる者として期待されていたのであろう。

図2-26 宗門人別帳の「孫兵衛後家なつ」部分
天保13年3月「宗門人別帳」(當麻家文書)

 弘化四年にいたり、孫兵衛家はなつ一人の家となった。その後、嘉永二年(一八四九)の宗門人別帳には兄の万次郎を、前年一二月に沼袋村から引き取ったという記載があるものの、翌年の宗門人別帳には万次郎の名はなく、以後、安政三年にいたるまでの三〇年間、孫兵衛家はなつ一人が守っていった。
 そして安政五年四月には、行方不明扱いになっていた弥太郎が、妻ひさをともなって孫兵衛家に帰っている。弥太郎は三八歳、安政六年には「孫兵衛」と改名して家を相続した。その翌年の安政七年、なつは没した。七五歳であった。