「なつ」同様、家を守ることを期待された女性当主として、金五郎後家「はつ」を紹介しよう。はつは文久三年(一八六三)に当主になってから六年以上、当主を勤めることになった。明治三年(一八七〇)「郡中御制法伍組帳(ぐんちゅうごせいほうごぐみちょう)」でもその名がみられる(當麻家文書)。金五郎家は、もともと存続が不安定な家でもあり、金五郎が入る前は、昇雲後家りせが当主を勤めていた時期があった(表2-18)。その後、りせの跡が必要になり、庄左衛門家の忰惣吉が跡を継いだが、惣吉がさらに七兵衛家を継ぐことになった。そのため、再びりせの跡を継ぐ者が必要ということになり、嘉永四年(一八五一)に新しく大沼田新田に入村したのが金五郎一家であった。嘉永三・四年頃に書かれたと考えられる証文によれば、柳久保村(現東久留米市)の金五郎が「柔和実体成者(にゅうわじっていなるもの)」、すなわち、ものやわらかで真面目な人柄ということで、家を相続してもらおうとしたが、金五郎は五人家族であり、困窮しているりせの跡では心もとないとして、村役人側は難色を示していた(史料集一八、二一七頁)。しかし、りせの組合は金五郎が家を継ぐことを強く願い、相続の許可をえたのである。組合は「百姓株敷(式)(ひゃくしょうかぶしき)」を減らすようなことは絶対にさせないとしている。百姓の株すなわち「家」をどうにか続けさせようとする、組合側の意図が読み取れる。
さて、文久元年の宗門人別帳によれば、金五郎とはつは、この年六月に離縁している。宗門人別帳の記載には「金五郎引取柳久保村」とあり、金五郎は以前に生活していた柳久保村へ帰ったのであった(當麻家文書)。「百姓株敷」は五人の子どもと共に、大沼田新田に残った妻、はつにゆだねられることになったのである。一家で入村した金五郎家であったが、離縁したのち、夫金五郎ではなく、妻はつに対して、五石八斗四升五合の高を持つ、「家」を守ることが期待されたのではないだろうか。