近世社会のなかでも一般の人びとは、恋愛から結婚へ進むことは珍しくなかったといわれる。但し、百姓間の婚姻においても、ほぼ同程度の家格や経済力のある家との婚姻関係を結ぶことが多かったようである。
また、近世の文書のなかでは、離縁状である「三下り半(みくだりはん)」がよく知られているといえよう。かつては夫が妻に一方的に離縁を言い渡す文書といわれていたが、この離縁状で最も重要なのは、再婚を許可することばの存在である。この時代の百姓たちにとって、再婚は珍しいことではなかった。大沼田新田に残る一〇八年間の宗門人別帳をみると、当主や忰のうち、二度の結婚を経験している者は少なくない。離婚の理由は死別のこともあるだろうが、嫁が二、三年で家を出ていると考えられる事例も目立つ。最初の結婚は、なかなかうまくいかないものだったのかもしれない。
大沼田新田では、庄左衛門家の忰の一人、幸八のもとに「たか」が嫁いだ。幸八とたかには娘が生まれたが、幸八は二七歳で病死してしまう。その四年後、たかは七兵衛家を継いでいた、幸八の弟惣吉と結婚した。娘も一緒であった。惣吉とたかはその後、三人の子どもに恵まれ、惣吉の実家である庄左衛門家に戻っている。