連光寺村の富澤家は、鎌倉幕府の有力御家人畠山氏一三代の孫為政が富澤姓を称したのち、永禄年間(一五五八~七〇)に連光寺村に帰農した家とされる。戦国期に今川氏に属したのち、連光寺村に定住、徳川家康が関東に入部し、慶長三年(一五九八)に実施した検地の際には案内役を勤めた。この時の富澤氏の名請地は村の四〇%にあたるほど、所有地が多かった。近世初期から代々連光寺村の名主を勤め、幕末期には、日野宿(現日野市)寄場組合四四か村の大惣代を勤めるほどの家であった。
せいは嘉永六年(一八五三)に富澤家に嫁いた。夫は富澤家一五代当主となる長男準平(政恕(まさひろ))である。大沼田新田の宗門人別帳には、「娘せひ 廿弐歳」の箇所に、「縁付出」の付箋が貼られている。この年、二二歳のせいが富澤家に嫁いだのである。当時準平は三〇歳、二度目の結婚であった。この頃のようすについては、富澤家に残されている「日記」に詳細が記されているので、そのあらましをみてみよう。
嘉永六年一一月二四日、谷保村(現国立市)の本田孫三郎が富澤家に訪れ、縁談のことについて話をした。本田孫三郎とは、医者としてまた書家としても知られた本田覚庵である。二日後の二六日、縁談のことは翌一二月四日に取り決めることになった。そして一二月四日、嫁を引き取る「吉日」ということで、谷保村の本田氏宅へむかえを出した。五つ時になって、本田氏とせい、そして本家の伝兵衛、さらに下女なども付き添って富澤家に到着した。本田氏のもとに控えていた、せいをむかえいれたのである。本田氏と伝兵衛は夕方に帰ったが、せいはそのまま泊まり、二、三日逗留することになった。準平そして富澤家も、せいを気に入ったのであろうか。六日になってから、せいは一旦、大沼田新田の親元へ帰っている。
そして嘉永七年二月晦日、準平とせいの婚礼が行われた。日記には、親族一同が立ち会ったとして、簡略に列席者の名も記されている。本田覚庵、母、忰の三人、大沼田新田からは、せいの弟広三郎、本家である當麻伝兵衛名代として忰(平次郎)、そして大沼田新田名主當麻弥左衛門家の翁助(のち弥左衛門)、また飯能村(現埼玉県飯能市)の名主又右衛門なども名を連ねている。せい自身、大沼田新田の村役人の家に連なる當麻家の育ちであったとはいえ、連光寺村は大沼田新田よりもはるかに大所帯であり、その村をまとめる名主家に嫁いだのである。その思いはいかなるものであっただろうか。
さて、せいは婚礼ののち、三月一三日に準平と母の三人で大沼田新田に里帰りしているが、日記には「とき」と記されている。「とき」はさらに、八月二八日に改名し「うめ」となった。この日の記述には、今日から「於節改め於梅とす」、すなわち「せつ」を「うめ」と改めるとある。当時の人びとは機会あるごとに名前を変えていることがわかる。日記にはこれ以後、「うめ」として登場している。安政二年(一八五五)四月一一日には第一子となる女子かめを出産、日記には「平産」とあるから安産だったのであろう。うめはその後も、三人の子を出産した。
うめの夫準平は一〇代から剣術を学び、天然理心流三代目近藤周助の門人で、新選組の近藤勇や土方歳三らとは同門であった。元治元年(一八六四)一月三日の一四代将軍家茂の上洛に際しては、旗本天野氏の用人格として上洛に随行した。富澤家の日記のうち、準平不在時の筆跡にはひらがなが多く、妻うめが代わりに書き記したと考えられている。準平が京都に滞在した約四か月間、うめは名主の妻として奮闘していたことであろう。
当時の結婚は、相応の家格、相応の交際圏のなかで行われていた。多摩の村々でも、各村の村役人層及びそれに相当する家格の家同士が縁談を行って交際圏を形成し、さらにその範囲を拡大していった。その意味では、大沼田新田當麻家と連光寺村富澤家の婚姻の事例も、当時の婚姻のあり方を象徴的に示すものであった。また當麻家と富澤家を仲介した谷保村の本田家の存在など、仲介人もふくめた多摩地域の村々の交流のようす、人びとのつながりがわかる事例である。
図2-28 せいの嫁ぎ先、連光寺村名主旧富澤家住宅
多摩市立多摩中央公園内の復元移築(平成23年10月撮影)