表2-21 江戸への奉公人(廻り田新田) | |||||
年代 | 奉公人 | このうち 江戸奉公人 | 年代 | 奉公人 | このうち 江戸奉公人 |
明和8年 (1771) | 7 | 0 | 文化3年 (1806) | 4 | 1 |
安永元年(1772) | 8 | 0 | 文化4年 (1807) | 1 | 1 |
安永2年 (1773) | 9 | 0 | 文化5年 (1808) | 5 | 1 |
安永3年 (1774) | (宗門帳なし) | 文化6年 (1809) | 6 | 2 | |
安永4年 (1775) | 9 | 0 | 文化7年 (1810) | 7 | 2 |
安永5年 (1776) | 9 | 0 | 文化8年 (1811) | 3 | 3 |
安永6年 (1777) | 10 | 0 | 文化9年 (1812) | 3 | 3 |
安永7年 (1778) | 6 | 0 | 文化10年(1813) | 5 | 2 |
安永8年 (1779) | 5 | 0 | 文化11年(1814) | 4 | 2 |
安永9年 (1780) | 4 | 0 | 文化12年(1815) | 3 | 2 |
天明元年(1781) | 2 | 0 | 文化13年(1816) | 3 | 1 |
天明2年 (1782) | 2 | 0 | 文化14年(1817) | - | - |
天明3年 (1783) | 4 | 0 | 文政元年(1818) | 2 | 1 |
天明4年 (1784) | 4 | 0 | 文政2年 (1819) | 4 | 2 |
天明5年 (1785) | - | - | 文政3年 (1820) | 5 | 4 |
天明6年 (1786) | - | - | 文政4年 (1821) | 5 | 4 |
天明7年 (1787) | - | - | 文政5年 (1822) | 5 | 6 |
天明8年 (1788) | 1 | 0 | 文政6年 (1823) | 6 | 5 |
寛政元年(1789) | 2 | 2 | 文政7年 (1824) | 6 | 5 |
寛政2年 (1790) | 2 | 0 | 文政8年 (1825) | 2 | 4 |
寛政3年 (1791) | 2 | 2 | 文政9年 (1826) | 2 | 3 |
寛政4年 (1792) | 2 | 1 | 文政10年(1827) | 2 | 1 |
寛政5年 (1793) | 2 | 0 | 文政11年(1828) | 1 | 1 |
寛政6年 (1794) | 2 | 0 | 文政12年(1829) | 4 | 3 |
寛政7年 (1795) | 2 | 0 | 天保元年(1830) | 3 | 5 |
寛政8年 (1796) | 2 | 1 | 天保2年 (1831) | 2 | 4 |
寛政9年 (1797) | 1 | 1 | 天保3年 (1832) | 3 | 5 |
寛政10年(1798) | 1 | 1 | 天保4年 (1833) | 1 | 2 |
寛政11年(1799) | 1 | 1 | 天保5年 (1834) | 3 | 2 |
寛政12年(1800) | 3 | 0 | 天保6年 (1835) | 3 | 2 |
享和元年(1801) | 4 | 1 | 天保7年 (1836) | 2 | 2 |
享和2年 (1802) | 4 | 1 | 天保8年 (1837) | 4 | 4 |
享和3年 (1803) | 2 | 0 | 天保9年 (1838) | 4 | 2 |
文化元年(1804) | 4 | 1 | 天保10年(1839) | 1 | 1 |
文化2年 (1805) | 5 | 1 | 天保11年(1840) | 3 | 1 |
*廻り田新田の宗門人別帳により作成。天保12年以降は他所への奉公人は記されていない。 *「-」は奉公人がいないもの。 |
では、奉公人はどのように村に入ってくるのであろうか。村をこえて奉公人がくる場合は、「奉公人請状(ほうこうにんうけじょう)」という、村や村役人の紹介状というべき文書が作成された(図2-29)。「奉公人請状」によって、奉公人は身元を保証され、奉公先で働くことができたのである。
図2-29 奉公人請状
安政6年12月「奉公人御請状之事」(當麻家文書)
大沼田新田で奉公人を雇っている家は限られていた。とくに名主弥左衛門家では、毎年二〇名前後、最も多い嘉永五年(一八五二)には、男二三名・女一一名、合計三四名にも及ぶ奉公人を抱えていた。彼ら奉公人は、弥左衛門が手広く営んでいた酒造業の手伝いのために雇われたと考えられる。宗門人別帳の記載によれば、奉公人のなかには、大沼田新田内から雇われた者もいるが、近隣あるいは遠方からきた者も多い。とくに酒造業をになったと考えられる二〇~五〇代の男性奉公人が目立つ。
大沼田新田の奉公人の数と出身地を示したものが図2-30①②である。なお、出身地としたのは、宗門人別帳に記された各奉公人の檀那寺の村であるが、一応の目安となるであろう。寛政三年(一七九一)の奉公人数は二四名、出身村は一二か村で、ほとんどが近隣の多摩郡・入間郡の出身者であった。しかし嘉永三年(一八五〇)には、奉公人五四名、出身村は三四か村と、人数や村数が増加していると共に、出身地の範囲が広域になっている。江戸からの奉公人もいるが、伊豆国(現静岡県)からきた奉公人もいた。多摩地域を中心として、人びとの交際範囲、行動範囲が広域になっていくようすがわかる。
図2-30① 寛政3年(1791)大沼田新田の奉公人の出身地 寛政3年3月「宗門人別改帳」(當麻家文書)より作成。 上記のほか、不明2か村(2名)。 |
図2-30② 嘉永3年(1850)大沼田新田奉公人の出身地 嘉永3年3月「宗門人別改帳」(當麻家文書)より作成。 上記のほか、不明3か村(5名)。 *現在の埼玉県・東京都の地図に、近世の村の位置を示した。 |
なお奉公人のなかには、つぎの年になって村内の別の家の奉公人となる者もいた。村のなかで働き手を確保、融通することもあっただろう。とくに弥左衛門家では、酒造業の働き手として村内の忰や娘を雇っているようであり、名主として、村の百姓の一員である彼らの生活を支える、という責任もあったかもしれない。