本節で紹介した大沼田新田の佐兵衛家には、多摩郡連光寺村(現多摩市)富澤家に嫁いだせいのほかに、せいと同年の養女「みつ」がいた。みつは、せいが嫁いだ二年後の安政二年(一八五五)三月、二三歳の時に、せいと同じ連光寺村へ嫁いでいる。
みつは野中新田の孫市の娘で、弘化四年(一八四七)の宗門人別帳には、佐兵衛家の奉公人として記されているが、この帳簿に貼り付けられた付箋に、佐兵衛の「養女」になった旨が書かれている。近世では、養子縁組や婚姻などによって居住する村を移る場合、それまで住んでいた村と、新しく住む村の村役人同士で、人が移動することを示す証文が取り交わされた。「人別送り状」と呼ばれるものであるが、みつの人別送り状の写も貼り付けられている。みつ一七歳であった。みつの働きぶりが評価されたのだろうか。同年の娘がいる佐兵衛家で、みつが養女となった理由は不明である。
養女となった六年後、みつは連光寺村へ嫁いだ。富澤家の日記のうち、安政二年三月一〇日の記述には、大沼田新田から佐兵衛の忰広三郎と、みつの実父である野中孫市らが、みつを送って連光寺村に付き添ってきたとある。みつの嫁ぎ先は諏訪坂万次郎と考えられ、連光寺村の百姓代を勤める家でもあった。元治元年(一八六四)の宗門人別帳によれば、万次郎とみつの間に、鉄平・くら・為之助の三人の子が確認できる(富澤家文書)。
当初、野中新田から奉公人として大沼田新田にきたみつであったが、大沼田の村役人一族の養女となり、さらに縁あって連光寺村の村役人家に嫁ぐことになった。現在にくらべれば、決して女性の地位が高くはなかった近世社会のなかでは、女性にとっては名のある家に嫁ぐことが、重要な生きる道と考えられていたであろう。みつの婚姻は、当時の村の女性にとっては「サクセスストーリー」といえるのかもしれない。