第一に気づくのが、多くの寺社が青梅街道沿いに点在していることである。往来の多い青梅街道沿いに人びとが居住し、それに関係するかたちで寺社も創建されている。一方、地割図では明確にならないが、多くの人びとの屋敷内に屋敷神が祀られていたことも見逃せない(後述)。街道や村の空間は、人びとが生産や消費を展開させていく重要な場であったが、残された寺社に注視していくと、現代とは比較にならないほど、神や仏が地域に守られていた。
さて、小平市域における青梅街道の西端は現在の東大和市に接する。まず注目できるのは玉川上水の分水口があり、ここに一ノ宮神社が立地していることである(図2-31)。この神社は、小川村の神明宮神主の宮崎主馬が、水の豊富な流れを祈願して創建されたと伝わる。「水の神」が、野火止用水の分水口近くに立地していることは、当地の性格を物語る。また、当地は野火止用水と青梅街道が交差する場所でもある。この交差する地点が青梅橋にあたった。近世後半に編さんされた江戸から御嶽山までの参詣案内書である『御嶽菅笠(みたけすげがさ)』にも、当地のようすが描かれている(図2-32)。交差する当地には、小川村講中による庚申塔(こうしんとう)が建っている。この庚申塔には、「西おうめみち、北やまくちみち、東江戸、南八王子」と刻まれており、道標の役割もあった。つまり、西に行けば青梅街道、北には山口道、東には江戸、南には八王子ということが、当地の地理的な認識にあった。
図2-31 一ノ宮神社
(平成24年8月撮影)
図2-32 『御嶽菅笠』小川村付近
青梅街道に沿って市域を東にむかうと、日枝神社(ひえじんじゃ)(山王社(さんのうしゃ))がある。小川村の集落の西端に立地しており、青梅街道沿いの両側に屋敷地が展開することが見通せる場所である。集落の端に神社が存立していることは、集落の成り立ちをみるうえでも興味深いものがあろう。また、当社の敷地内には用水が流れ、用水を取水する周辺に当社が立地している。
さらに、青梅街道を東に進むと、左側には神明宮がある。ここでは鳥居前に用水が流れている。また街道沿いの右側に小川寺がある。街道を進むと、鎌倉街道が横切り、その北側に、石塔ヶ窪と呼ばれる場所がある。後世の記録によると当地は窪地になっていたとみられ、元来は水が湧いた場所としても想起される。まさに、その場所へ石塔が建っていたことが推察される。
街道を進むと、平安院があり、この辺りが村の境界として認識されていたと考えられる。平安院が新田との間の境界に設定されたとも推察される。さらに熊野宮が右側にあるが、巨大な一本の榎が存在した場所に、熊野宮が建てられている。樹木への信仰は、古くから確認できるものであるが、この地に熊野宮が建ったことを考えると、一本榎への信仰もうかがえよう。街道を進むと、左側に多摩野神社、山門の前に庚申塔が立地している延命寺がある。さらに街道を進むと、武蔵野神社(図2-33)がある。この社号は明治初期に改編されたものである。社号の改編は明治初期に行われることが多いが、当地における「武蔵野」についての意識と関わる社号と推察される。これは多摩野神社(図2-34)の社号も同様の例となろう。
図2-33 武蔵野神社 (平成24年8月撮影)
図2-34 多摩野神社 (平成24年8月撮影)
市域の東端には、黄檗宗寺院の円成院が立地している。近世の円成院の周辺には多くの子院と評される庵などが存在していた(第一章第二節4)。青梅街道を行きかう人びとは、円成院を右側に見ながら、田無や内藤新宿方面に抜けていったのであろう。
なお青梅街道沿いから離れるかたちで展開する寺社も存在している。玉川上水沿いには、海岸寺(かいがんじ)が立地している。同寺には、のちに小金井桜の碑が建立されている。また大沼田新田も、やや青梅街道から入った場所に位置しており、新田開発にともない泉蔵院が創建される。市域における寺院のうち、小川寺以外は、享保の新田開発以降に創建された寺院である。