小川家に伝来した安政四年(一八五七)の由緒書には、青梅街道の認識と関係する記述がある(図2-35)。この由緒書には、小川寺等と小川家の関係が記されているが、注目すべきは、青梅街道が徳川菩提寺の上野寛永寺の建設にかかわったことを由緒とする意識である。このなかで、小川家は、建設用材が青梅街道を通り、そのことへ同家がかかわったことを由緒の一部に入れている。
図2-35「小川村起立書上控」
安政4年8月(史料集12、p.44)
また年未詳ながら、小川家文書の中には、関東十八代官の一人、中川八郎左衛門が小川新田あてに「厳有院様御仏殿御作事御用」として、成木村より白土をあつめるので、小川新田に助馬三〇匹を出す指示についての史料が伝来している(史料集二〇、三〇一頁)。なお厳有院(げんゆういん)は四代将軍家綱、仏殿とは寛永寺を指す。このような史料内容が、先の由緒形成の根拠になったものとみられる。
青梅街道は、青梅からの物資を運ぶルートであることが第一義に掲げられるが、青梅街道を介して寛永寺と小川村の人びとが繋がりを示す由緒が存在していた。青梅街道は徳川家の菩提寺(ぼだいじ)寛永寺建設に関与したルートでもあった。