まず、小川寺について取り上げてみたい。同寺院の小川家をはじめとした村のなかでの位置づけについては、既に多くが述べられているので、境内を観察しつつ、当時の人びとの信仰心に迫ってみたい。
まず、境内の入口、すなわち総門(そうもん)があり、仁王像がみられる(図2-36)。さらに六地蔵も配置されている。一般に地蔵は衆生(しゅじょう)の苦しみを救うとされ、多くの寺院の入口にみられる。このような石造物の配置は、ここより聖なる空間としての寺域(小川寺)であることを象徴している。この聖なる空間=聖域としての意識は、当時(一八世紀後半の例)の小川村の人びとが小川寺の住職に期待していた認識でもあった。その意味では、貞享三年(一六八六)に寄進された小川寺の鐘(梵鐘(ぼんしょう))にも再度注目しておく必要がある(口絵3)。
図2-36 小川寺総門 (平成24年8月撮影)
一般に寺院の鐘は、概して鐘の音を聞いた者の災いを取り除くことに目的があったといわれるが、「三井の晩鐘(みいのばんしょう)・称名(しょうみょう)の晩鐘」で知られる三井寺(現滋賀県)・称名寺(現神奈川県)のように名所化することもあった。但し、小川寺の鐘の場合は、村の人びとへ時間を知らせる、「時の鐘」の性格をもっていたとみられる。これは小川寺の住職の日常的な役割とも関連する。小川寺を構成する「法具」としての鐘は、音を通じて人びとの精神とかかわっていたことになる。なお現在、鐘は小川村開発当初の文化財として、人びとの価値観と関係している。
また、このことと関連するが、当然ながら小川寺は死者などの慰霊空間でもあった。たとえば、開発名主であり開基家である小川家の墓石がある。他の墓よりも、手厚いつくりである。このほかに、小川家の墓は出身村の岸村禅昌寺にもみられる。小川寺の墓のあり方から、同家の菩提心のあつさを評することも可能だが、村内有力層が墓の造成を通じて、村内部での主導性を誇示していたことも読み取っておくべきだろう。寺院は、村の人びとの格式なども象徴する「場」としても存在していた。このような人びとと寺院の関係性を軸にすえつつ、人びとの信仰心が醸成されていた。
また、境内には六十六部(ろくじゅうろくぶ)廻国行者の石造物も存在している(図2-37)。六十六部廻国行者は、六部様(ろくぶさま)や廻国行者(かいこくぎょうじゃ)と呼ばれることが多く、法華経を著名な寺院に奉納することなどを行った巡礼者のことである。この行者の供養塔が境内にある。道中で亡くなった六部を小川寺に葬ってきたことが想起される。なお、六十六部は明治初期に廃止されるため、この石造物は明治以前の遺跡である。
図2-37 廻国供養塔
つぎに、平安院境内の念仏供養塔を取り上げておきたい(図2-38)。平安院は、小川寺とともに禅宗の一派の臨済宗寺院であり、小川新田の成立に伴い創建されている。境内には、念仏塔が建てられている。
図2-38 念仏塔(享保13年)
そして一般に念仏は、浄土宗系の寺院で実施されることを想起するが、この念仏塔の存在は禅宗の平安院でも実施されていたことを物語る。つまり当時は、仏教諸宗派による特徴が稀薄であり、人びとはどの宗派に属していても、たとえば禅宗であっても念仏の実施を求めていたのである。当時の寺院は、可能な限り人びとの求めるさまざまな宗教的な行事を実施することで、地域に存立してきた。明治期以前における各宗派の教団形成の段階では、その当時の村の意向などに柔軟(じゅうなん)に適応することで寺院が存立していたことになる。