屋敷に残る神々

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現在でも小平市域の各家では屋敷神(やしきがみ)を祀っている。各家々の屋敷神についての史料は、一般にみられないが、市域では「竈神祭覚帳(かまどかみまつりおぼえちょう)」(文久三年〈一八六三〉)が伝来している(宮崎家〈神明宮〉文書、図2-39)。この史料は宮崎家が各家々の竈祓(かまどはら)いを行っていたことを示すものであり、依頼をした二二〇人以上の人びとが書き上げられている。つまり、多くの家々では宮崎家に竈祓いを依頼していた。ここに神主と人びととのつながりが確認できる。また、竈にちなんだ用語として「カマドをおこす」が家を創出すること、「カマドを分ける」が家を分家することとして知られ、ある段階まで竈と家が不可分である旨の認識が存在した。その意味では、「竈神」には「家の神様」という認識とも不可分であったと考えられる。

図2-39 「竈神祭覚」
文久3年2月(宮崎家〈神明宮〉文書)

 さらに、この史料では多くの家々で複数の屋敷神を祀っていたこともわかる。宮崎家は、これら家々の屋敷神に祓いを行っていた。なお小川家には、後世のものながら屋敷内のようすをスケッチした絵図面が残っている。これによれば、屋敷内には稲荷社があり、弁天池・弁天社が描かれている。「竈神祭覚帳」の内容とあわせて考えてみると、当時の人びとにとって屋敷内に小祠を置くことが一つの規範になっていたことがわかる。ある段階まで、現在の屋敷を中心とした敷地には、さまざまな「神」を祀るという意識が広く存在していた。また、当地ではここに神主が関与しており、神主と人びとの社会的な繋がりを示す事象となっていた。