そのなかで檀家という用語に示されるように、寺院は「家」を介して関係を構築していた。特に「家」の問題に関連して、比較的、現在史料として伝来している内容の史料に戒名の格差をめぐって混乱を示すものがある。
文政一三年(一八三〇)、廻り田新田の音右衛門は、仏教の戒名の一つである「信士号(しんしごう)」をえようとするが、出百姓は「善(禅)定門(ぜんじょうもん)」であることが村のなかで確認されている。天保一二年(一八四一)には、清水村三光院との間で「信士号」をえようとした次右衛門が檀家のなかで問題として浮上している。二つの例は、廻り田新田において上位の戒名をえようとした人物の出現に伴い軋轢(あつれき)が生じた事例である。これは、人びとが寺院を通じて家々の社会的な格付けがなされるという認識があったことを示している。人びとの信仰心とは、このように村のなかでの「家」のあり方ともかかわりあいつつ形成されていたものといえる。
一方、新田の人びとは鎮守にあたる氷川神社を精神的なつながりの「場」としていた(図2-40)。氷川神社については、『新編武蔵風土記稿(しんぺんむさしふうどきこう)』では修験の管理を示すが、同新田の寛政二年(一七九〇)村差出明細帳(むらさしだしめいさいちょう)においては、「忠兵衛持高之内」となっている(史料集一、一五二頁)。忠兵衛持ちの神社が同新田の鎮守として存立していた。新田村のまとまりに鎮守がかかわっていたことを物語ろう。なお後述するが、天明八年(一七八八)には布田宿(現調布市)から虚無僧(こむそう)が来訪して、この頃から廻り田新田は村としての対応がみられる。
図2-40 氷川神社 (平成24年8月撮影)