図2-41 庚申塔(延命寺)
庚申信仰は、中国の道教(どうきょう)から発生したものといわれるが、近世においては六〇日に一度の「庚申の日(こうしんのひ)」において、当時の人びとが一定の場所に仲間を募って集合し、徹夜をした。この場合、徹夜をすることを「庚申待(こうしんまち)」という。なお、集合する当番の家などでは、精進料理を食べるなどして、時間を過ごし、人びとが集ることから、この集りを庚申講とも称した。
当時の人びとが庚申の日に集まり、時間を過ごしていたことには、以下の説明が一般的である。つまり、庚申の日に人間の身体から「三尸(さんし)の虫」が抜け出し、天帝(てんてい)にその人物の「行い」を告げ、災いをもたらすというものである。そのため「三尸の虫」が身体から抜け出すことを防ぐために徹夜をしたのである。
図2-42の庚申塔は、この庚申の行事を記念として建立されたものである。また写真からもわかるように、庚申の本尊として神道では猿田彦(さるたひこ)、仏教では青面金剛とすることから、多くの庚申信仰関連の石造物に彫りこまれている。このほか、小平市域には、多くの庚申塔が残されている。また、さまざまな型の庚申塔が各地に伝来し、多くは寛政一二年(一八〇〇)・万延元年(一八六〇)につくられている。これは六〇年に一度の庚申縁年(えんねん)につくられる傾向のあらわれと認められる。また庚申塔の作成年次は、地域にとってのメモリアル碑という性格もそなわっていることになる。
一方、庚申信仰に関しては各地の古文書に残りにくいが、いくつか関連文書が伝来しているので取り上げてみたい。
宝暦二年(一七五二)、小川村の神明宮で太鼓が造立されている。この場合の太鼓造立の経費について、神明宮において「庚申待」を開催し、そこからの集金を頭金としている(図2-42)(宮崎家〈神明宮〉文書)。これは「庚申待」にともなって、多くの人びとから集金したものといえる。また「庚申待」が村での一行事として定着していることもわかる。
図2-42 「神明宮太鼓造立施主之覚」
宝暦2年8月(宮崎家〈神明宮〉文書)
そして、同村の神主である宮崎家は「庚申待」の縁起を伝来させている。縁起は、一般に寺社仏閣の由来を記したものであるが、縁起が伝来してきたことを考えると、当時の神主が庚申信仰に関与していたことを示す。神主が、当時の人びとの庚申信仰に照応していたものともいえる。わずかな史料を紹介したが、先の石造物と合わせて考えると小川村に庚申信仰が定着していたことがわかる。
なお、寛政一二年・万延元年には庚申縁年が実施されていたことを述べたが、この庚申の年に爆発的に参詣者が増大したのが富士山である。一般に「江戸八百八講」と称されるように、多くの人びとが講をつくり、富士参詣が実施されていたことが知られる。これは富士山が庚申の年に開かれたとする伝説に由来し、それにより「御利益」があるとして、多くの人びとが富士山に訪れている。庚申信仰は、富士山参詣ともかかわりあいつつ、多くの人びとに意識されていたことになる。