現在でも市域に限らず、馬頭観音(ばとうかんのん)の石造物を目にすることがある。市域の路傍に位置する馬頭観音でも上記のものがある(図2-43)。近世、物資や人の輸送のために馬が利用されていたが、その安全や菩提を弔うために建立されたものである。馬を弔うという行為が現在とは違うかたちで認識されていたともいえる。なお、近世には馬医の存在も認められる。近世後半の多摩地域で比較的有名な医者であった上谷保村(現国立市)の本多覚庵(ほんだかくあん)は、当初は馬医であった。
図2-43 馬頭観音像
また神社のなかには、動物の信仰と不可分であることを示した例もみられる。比較的大きな神社の脇侍(わきじ)を構成する眷属神(けんぞくしん)をめぐっては、慶応三年(一八六七)、小川村において三峰神社の眷属神を「御眷属引替年参」と年参で御眷属を引き換えることを示す史料が伝来している(史料集一四、一〇六頁)。当時の三峰山は狼除や盗難除の信仰を受けていたことが知られる。とくに狼除は、田畑を守ることを目的としたものである。このような動向と関連して、三峰神社を小祠として勧請する地域も存在している。
このほか、小平市域に展開する稲荷社との関係で取り上げれば、狐の存在も忘れてはならない。一般に「狐にとりつかれた」という逸話や「狐の嫁入り」といった迷信も広く知られるように、狐を取り巻くさまざまな社会認識が存在していた。
当時の人びとにとっては、自然に生きる動物への畏怖をもちつつも、それらとうまくつき合うことを関心事とし、そこに信仰心がうまれていたといえる。
田畑と動物との関連でいえば、小平市域が尾張藩鷹場に指定されていたことにも注意しておきたい(第一章第四節)。鷹場に指定されていたことにより、鷹場法度の規制がかかり、鉄砲などの使用にも制限が加えられる。当時、農作物への害虫駆除が、人びとの関心事の一つであったとみられる。動物や害虫との闘いも、さまざまな規制のうえで存在していたのである。なお、鷹場との関係で、神社の祭礼の執行に鷹場関係の役人が関与しており、祭礼の意味づけをするうえでも興味がもたれる。