現代でも実施されることだが、古くから建造物の造立や再建などにともなって棟札(むなふだ)と呼ばれる木札が作成される。棟札には、造立・再建に関与した人びとや年次などが記載されている。ここでは小平市域に残されている棟札をみておきたい。
文政一二年(一八二九)二月には、小川新田の熊野宮の再建がなされている。ここでは、造立者とみられる人びとの名前(小川駿造平重好・大沢弥兵衛・並木源左衛門・瀧島八左衛門)が列挙されている。一般に百姓は姓を公称できないことは知られているが、この棟札には姓を記載している。棟札に姓を記載することで、その一族と熊野宮との関係が明示されたと考えられる。また、当棟札には多摩郡野口村(現東村山市)の大匠大棟梁として五十嵐静馬藤原昌英、五十嵐喜太夫藤原昌国が記されている。両人は大工(だいく)とみられ、木材を割る木挽(こびき)として小川新田に居住する比留間金蔵が記されている。このような大工や木挽にとっても、地域社会の多くの人びとがかかわる神社再建に関わることは名誉であったと推察される。
さらに、当棟札で注目されるのは社号の表記である。すなわち「熊野三社大権現」と表記されており、単に熊野神社ではない。当社に関する文書史料では「熊野神社」「熊野社」などとみられるが、ほかに権現号の表記を見出すことができない。むしろ「熊野社」などの表記が公称とする一方で、「熊野大権現」は地元で伝統的に使用してきた可能性がある。
棟札は、文書史料には表記されない人びとの意識をうかがわせ、当地の人びとの熊野宮への信仰心とも関連している。つまり、人びとの「家」の永続性を願う「心」と神社がかかわり、このような認識が、神社をめぐる信仰心として存在していたとみられる。