当時の人びとは、村域の地元の寺社のみに信仰心を持っていたわけではない。遠隔地の寺社と関係を結ぶこともあるが、ここでは郊外に位置する臨済宗正福寺(しょうふくじ)(現東村山市)・山口観音(現埼玉県所沢市金乗院(こんじょういん))について取り上げたい。
正福寺では、享保期(一七一六~三六)、千体地蔵を建立するが、これは多摩地域を中心とした周辺村の多くの人びとからの寄進からなるもので、地蔵に寄進者の名前が書き上げられている。この中に小平市域の人びとも名前をみせている。地蔵に対する人びとの信仰心がうかがえるが、正福寺の信仰圏が比較的広い範囲にわたって展開していることも注目される。一般に当時の人びとの信仰空間は、寺社側のさまざまな働きかけもあり、重なりあいつつ展開していた。地蔵への信仰が、比較的早い段階から確認できることでも、当例の重要さを示す。なお、鈴木新田には約二百体の「亀乗地蔵(かめのりじぞう)」が造立され、地蔵信仰の展開も確認できる。この「亀乗地蔵」は、同新田の宝寿院の展開とかかわる。
また市域の人びとが関与していたことが知られるのが、山口観音を一番札所とした地方霊場(狭山三十三札所)である。『御岳菅笠(みたけすげがさ)』に山口観音が描かれており(図2-32)、多摩地域の人びとにとっては馴染み深い地方霊場となっている。寛政三年(一七九一)、山口観音に対して金銭の寄進を示す史料が伝来している。内容は聖徳太子像の夜灯料の金百疋の寄進を示したものである。聖徳太子は、信仰の対象として取り立てられる人物として知られ、山口観音の信仰に聖徳太子が関連していたことになる。
また当時、山口観音に関した略縁起(りゃくえんぎ)が作成されていたことも知られる(『略縁起集成』第四巻)。略縁起は各寺社の来歴などを簡略に記したもので、さまざまな観音譚(かんのんたん)が記されている。とくに、小川村における幼児の病が山口観音の御利益(ごりやく)により治癒した旨の記述がある。これらの内容が、すべて信じられていたかどうかは不明だが、それよりも、このような「語り」が存在していたことが注目される。当時、さまざまな「語り」が山口観音の縁起として流布していくことで、札所めぐりが盛り上がりをみせたと考えられる。