他地域から訪れる宗教者

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小平市域の村々には、遠隔地からさまざまな宗教者が廻村してきた。小平市域の村々に廻村することを目的とする事例では、富士山の御師(おし)、虚無僧(こむそう)、座頭(ざとう)、京都の白川家(しらかわけ)(神主へ免許状を発給する本所)の役人、このほか、御嶽御師(みたけおし)などが確認できる。
 虚無僧の例では、天明期(一七八一~八九)に廻り田新田へ廻村している。このときの廻り田新田の虚無僧は、多摩郡布田宿から廻村した安楽寺(あんらくじ)の者である。虚無僧側は、自らが廻村する場所を「留場(とめば)」という用語であらわし、廻村する「場」を一種の権利としていた。このことは、同新田がほかの村と同様に、「留場」に入っていたことを示唆している。そして、この場合、村側は金銭を出資して対応しており、金銭を出資する虚無僧として選定していたとみられる。虚無僧に限らないが、さきに述べたように当時はさまざまな宗教者が往来していた。とくに、偽りの宗教者が廻村することもあり、無用な出資を控えないと、村側の負担が増加することもありえたのである。そのため宗教者の選定が必要であり、選定がなされると積極的に対応していた。廻り田新田による虚無僧との関係構築は、同新田の整備状況とも関連しているとも推察される。なお多摩郡の虚無僧では、青梅鈴法寺(れいほうじ)の存在が知られ、青梅街道沿いを往来している。虚無僧が、人びとの身近な場所を往来する状況がみられたのである。
 さらに、甲州都留郡、富士山の麓の上吉田村(現山梨県富士吉田市)から御師と呼ばれる宗教者も廻村してきている。この場合も、虚無僧と同様の対応をみせるが、留意されるのは、富士山御師の廻村は檀那廻りという性格を有していることである。たとえば、富士山御師の大友氏が廻村していることを示す史料が伝来している。この場合、御師が御祓いを実施する際の金銭出資レートが記されている。たとえば「一万度御祓(おはら)い」と呼ばれる御祓いには、金一両が支払われるという。
 御師は廻村先の檀那場において、祈祷や占いなどを実施していたが、このほかにも人びとの生活に必要な情報をもたらす存在でもあった。このような村の外側から訪れる宗教者を、当時は丁重にもてなす傾向がみられた。
 なお、当時の富士信仰は、江戸を中心に多くの参詣者が富士山を訪れる富士講が形成されていた。元治元年(一八六四)に、富士野佐兵衛という人物が「富士登山三十三度大願成就碑」「天下泰平五国成就」などと刻まれた碑を造成している。この富士野は富士講を主導する先達(せんだつ)である。このほか、時代は明治になるが、上吉田村の御師、小佐野家には小平村の人びとが寄進した衝立が伝来している。両例ともに、小平市域の人びとの富士信仰の証左となる資料となる。現在、外部からの宗教者から訪れるということ自体はみえにくくなったが、それにともなった信仰が確実に存在していたものといえよう。
 なお廻村とは別に、単に青梅街道沿いなどを往来する宗教者もみられた。小川村の御用留などには、さまざまな人びとの往来事情が記載されている。当時の人びとは、イデタチの異なる宗教者の往来を視野にとどめていた。現在とは違う、人びとの往来事情が展開していた。