近世の人びとは、寺院において人びとを弔っていた。しかし、一八世紀半ばを過ぎると、神葬祭(しんそうさい)という形の神道方式で人を弔うことを望む人びと(とくに神主)がみられるようになる。神社は、本来、穢れが生じることを忌む場であるが、このような認識を克服して、神葬祭が実施されていく。
小平市域では、熊野宮宮崎家が小川寺との間で神葬祭の実施をめぐる史料を残している。史料は、神主の宮崎家が小川村や小川寺との間で神葬祭の実施をめぐる訴訟にともない作成された。
まず新たな動きをみせたのが熊野宮の宮崎家である。寛政七年(一七九五)、宮崎若狭(みやざきわかさ)の父宮崎采女(みやざきうねめ)が病死したことにより、神葬祭の機運がもりあがる。一旦、この時点で宮崎家は神葬祭を実施しないことを決めたが、再び吉田家へ神葬祭の実施を願い出て争論となっている。勿論、これまで宮崎家の葬祭は小川寺住職が取り仕切っていたが、宮崎家は仏葬から抜け出そうとしたのである。結局、文化元年(一八〇四)、解決の際に作成された済口証文(すみくちしょうもん)では、宮崎家の神葬祭が却下されている。
ここで注目すべきは、神主が寺院での葬祭を忌避していること、一方村側が神主のその動きを却下していることである。当時の情勢としては、京都の吉田家が神葬祭を推奨する動きをみせており、神葬祭が容認される事例も知られる。このような例の場合、吉田家と村側の容認があれば神葬祭は実施されていく傾向にあった。しかし、宮崎家の例では村側が反対の意向を示した。つまり、吉田家の容認のみでは神主の神葬祭が遂行されなかったことを明示している。
この神葬祭問題を通じて、村側の意向で注目できる点は、神葬祭が実施された場合の神主の墓地のあり方である。つまり神葬祭を実施した場合、その墓地がどこに設定されるかという問題である。そこで村の人びとは、神主が神葬祭を実施しても、結局、墓地の立地場所が浮上することを言明している。そのためもあって、村側は神主の新たな意向を認めなかったのである。この神葬祭の問題から、村側が小川寺を葬祭にともなう穢れをおさめ、村の秩序を保つ存在として認識していたことを読み取っておきたい。