神主の立場と復古意識

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一方、宮崎家文書には、吉田家や徳川家康からの発給文書などを写し取った冊子の史料が伝来している。とくに神主が当時の権威と不可分な関係を構築しようとする認識がうかがえる。そのなかでも天明二年(一七八二)の吉田家からの諸社禰宜神主法度(しょしゃねぎかんぬしはっと)の再触れを写し取っている。この触は、各地の神主が吉田家からの免許を受けることを改めて幕府から指示されたものである。この頃は、先に述べたように宮崎家が神葬祭の実施を意識していく時期と重なる。熊野宮宮崎家の立場は、一八世紀後半に吉田家などの権威をあわせもちながら、地域社会のなかで権威ある存在として浮上してくることになる。
 さらに万延元年(一八六〇)、江戸城の本丸造営に際して、金子を上納していることをうかがわせる願書が伝来している(宮崎家〈熊野宮〉文書)。この願書では、七家の宮崎家が名前を連ねている(表2-22)。多摩郡村山郷(現瑞穂町)で朱印地をもった阿豆佐味天神社(あずさみてんじんじゃ)などの兼帯神主宮崎能登の金一〇両を筆頭に、小平市域の宮崎家をふくむ同じ宮崎の姓を名乗る宮崎家が確認できる。このことに関連して、阿豆佐味天神社の宮崎能登には「触頭(ふれがしら)」の肩書きがみられ、阿豆佐味天神社の宮崎家を中心として、神主達が同族意識を醸成しつつ、江戸城本丸造営に関与していることになる。このような神主間のあり方は、明治以降も確認できるが、この江戸城の本丸造営への関与は、当時の神主が朝廷権威だけでなく、幕府権威に関与することで結集していることにも注意を要する。
表2-22 江戸城本丸造営に関する出資金献金神主一覧
No.神主名神社名所在地支払い金備考
1宮﨑能登阿豆佐味天神社多摩郡村山郷7両朱印地
2同上神明社・御嶽権現多摩郡石畑村1両 
3同上三社権現多摩郡箱根﨑村3両除地
4同上阿豆佐味天神社多摩郡殿ヶ谷新田3両除地
5宮﨑若狭阿豆佐味天神社多摩郡砂川村1両除地
6宮﨑左衛門熊野三社権現多摩郡中神村1両除地
7宮﨑伊予金峰山蔵王権現多摩郡福島村1両除地
8宮﨑主膳諏訪八幡両社多摩郡柴﨑村2両除地
9宮﨑加賀神明宮多摩郡小川村1両除地
10宮﨑左源太熊野宮多摩郡小川新田1両除地
万延元年「乍恐以書付奉願上候」(宮崎家〈熊野宮〉文書)より作成。