熊野宮崎家の活動のなかには、養蚕業・医療・藍玉に関する史料が伝来している。宮崎家の多岐にわたる活動がうかがえる史料である。
明治以降、養蚕は当地で盛んに行われた。養蚕関連の御札も伝来しており、養蚕業にちなんだ信仰が存在した。新たに生業が成り立ってくれば、そこへ信仰心がうまれることを養蚕の問題は示している。明治一三年(一八八〇)には、神明宮において「養蚕祭」の開催が計画され、養蚕を通じた地域再編の動きが計画された。養蚕への信仰は、地域形成のあり方ともかかわりをもっていた。
また藍玉についても宮崎家がかかわりをもっている。藍玉については明治一〇年(一八七七)以降衰退していく傾向にあり、現状のところ養蚕のような信仰にかかわる問題は抽出できないが、神主の活動として人びとに認識されていたとみられる。
医療については、宮崎家が明治以降、医者となる事情とかかわって注目される。近世の宗教者が医療に従事する例は多い。宮崎家の場合も遅くとも幕末期から医療に従事していた可能性があるが、明確化するのは明治以降である。幕末から明治にかけての宮崎家の神主としての立場は、医療の知識を兼ねた存在として、人びとに意識されていたとみられる。
養蚕・藍玉・医療を取り上げたが、幕末期の宮崎家の動向をみるうえでは捨象できない問題である。神主が地域においてさまざまな活動に関与しつつ、地域に存立していた。