これまで当時の宗教者の活動に光を当ててきたが、百姓たちの動向にも迫ってみたい。周知のように、当時の人びとは各地の有名寺社仏閣に参詣した。当時の人びとは現在よりも信心深かったという評価もあろうが、それよりも単に信仰心ばかりでなく、人びとは寺社にまつわる来歴などにも関心をもちあわせていた。まずは大沼田新田の伝兵衛家を取り上げる。
伝兵衛家では江戸駒込の大忍寺に菩提を弔うことをうかがわせる例がある。先祖の菩提を弔う行為は、地元の菩提寺、この場合は泉蔵院に限らないのである。伝兵衛家は菩提寺への深い関与をもちながら他地域の寺院参詣を積極的に行っていた。また先祖などの菩提を弔う場合、地元の寺院に限らないあり方にも注目しておきたい。
なお大沼田新田の稲荷社については、伏見稲荷神社と伝兵衛・弥左衛門が関係をもっていた(第一章第二節7)。どのような経緯で関係を構築したかは不明であるが、俗人である両名が伏見稲荷神社と関係を構築していたことは、百姓と京都の有力神社との関係を考えるうえでも注目できよう。
このほか、大沼田新田では、文久二年(一八六二)作成の相模大山(おおやま)への参詣者の書き上げが伝来している。六人を一組にして、一人金一朱ずつを講金として出資させ、このうち一名が年ごとに参詣するというものである。講などを組織的に構築することも、当時のあり方として注目できるが、それを通じて遠隔地の寺社との社会関係を構築していくことになり、その際に寺社が人びとの文化性を形づくる魅力的な「場」として認識されていたことも重要である。当時の人びとにとって娯楽の問題と寺社参詣は不可分に存在しており、ここに信仰心が介在していることも忘れてはならない。