図2-44 「武州府中松尾講勧進帳」
嘉永7年(史料集14、p.272)
このなかで「近年加入願主」として小川村の油屋勝五郎が名前をみせている。また松尾神社については、寛政一二年(一八〇〇)の庚申の年次に勧請したことが記されている。
一般に松尾神社は酒造の「神」として知られる。そのためもあってだろうが、多摩地域で酒造に携わった八名が講を形成している。このほか、醤油業の六名もみえる。ここで注目すべきは、一つの産業を営んでいた人びとが神社を通じて結集していることである。また、松尾神社が立地した六所神社も注目される。同社は、武蔵の六所神社として武蔵国府のあり方と不可分にかかわり、一八世紀後半以降、その存在感を際立たせていく。このような六所神社の動向とも、軌を一つにするように、松尾神社の整備が認められ、そこへ小川村の油屋が関与している。松尾神社への信仰と六所神社の社会的立場の浮上とをあわせて考えると、松尾講の人びとの動向は信仰心に限らず、六所神社を介した社会潮流とかかわることも意識していたとみられる。