享和三年(一八〇三)、忠兵衛(斉藤家)は「太々御神楽献立(だいだいおかぐらこんだて)」という史料を書き写している(史料集一四、二九三頁)。これは正月二一日から二五日までの太々神楽の献立書き上げである。たとえば、正月二二日夕には「本膳」「二ノ膳」の品目が書き上げられている。実際、どのように神楽が実施されたかは不明だが、忠兵衛が神楽を実施していくうえでの手順や作法を身につけようとしていたことは確かである。
また火防の信仰を集めた遠州秋葉山秋葉寺(しゅんようじ)(曹洞宗)への金銭の寄進、天明七年(一七八七)には鎌倉の浄智寺(じょうちじ)へ青銅八文を寄進している。さらに斎藤家には、「御伝え」と記された史料が残されている。この「御伝え」は富士信仰に関連した宗教的作法書といえるが、当家が富士信仰へも関心をもっていたことを物語り、「御伝え」は、小平市域でも富士講へ関心があったことを示すものといえる。
このほか、斎藤家にはさまざまな道中日記も残されている。このうち、日光東照宮(現栃木県日光市)に参詣した記録では、四月一七日に日光山に訪れていることが記されている。これは日光山での祭礼当日にあたる日であり、明らかに祭礼を見学することを目的とした参詣である。さらに、同家には上州の榛名や伊勢参宮に参詣するための集金の帳面も伝来しており、遠隔地への参詣を意識した生活をおくっていたことをうかがわせる。
一方、文政九年(一八二六)、鈴木新田の海岸寺で大般若経(だいはんにゃきょう)を寄進する機会があった。斉藤家からは「御経壱巻ニ付代四百文」の支払いがみられ、海岸寺で使用する大般若経の巻子(かんす)の寄進に尽力している。なお、大般若経は釈迦が説いた経文のことで六〇〇巻からなり、実際には僧侶が転読(てんどく)することで、厄祓いをもたらすとされた。この鈴木新田の海岸寺の例は、多くの経文からなる大般若経を寄進する、それ自体が仏教的な善事にあたる作善(さぜん)の意味があったことを示している。また、この巻子の寄進には、海岸寺を菩提寺とする人びと以外からの寄進行為もうかがえ、寺院の信仰圏の広さを物語る。なお、当時の寺院は菩提を弔う檀家以外からも、場合によっては寄進を募ることもあった。
なお同新田の丹生家では、上野の寛永寺を一番札所として、慶応二年(一八六六)以降寺社参詣を行っている(表2-23)。これは仏教の経典である大乗妙典(だいじょうみょうてん)を寄進する行為を背景にしたもので、江戸近郊の著名な寺院を中心に寄進行為を試みている。また表を参照すると、時折、天皇家の勅願所(ちょくがんじょ)である旨などを記述している。寺社参詣を通じて、古来から存在する寺社の来歴を認識する人びとが出てきたことになる。
表2-23 神社仏閣納経帳(慶応2年) | ||||
No. | 寺社名(管理施設名) | 年次 | 品目 | その他、記載事項など |
1 | 東叡山中堂政所 | 慶応二年九月十一日 | 奉納経大乗妙典 全部 | |
2 | 三縁山法王殿(行者) | 同年九月 | 奉納経三部妙典 全部 | |
3 | 金龍山浅草寺(執事代) | 同年九月十一日 | 奉納経 全部 | |
4 | 勝林山霊感殿(金地院知事) | 同年九月十二日 | 奉納経 全部 | |
5 | 石清水八幡宮御本丸御祈願所(浅草大護院) | 記載なし | 奉納経 全部 | |
6 | 勅願所 三田八幡皇太神宮(別当所知事)稗田神社 | 同年十一月八日 | 奉納経 全部 | |
7 | 本尊薬師如来(国分寺) | 明治三年三月一日 | 奉納経 全部 | 行基大菩薩御建立、聖武天皇勅願所とあり。 |
8 | 正八幡宮(下総国八幡宮別当法漸寺役所) | 慶応二年九月十六日 | 奉納経 全部 | 宇多天皇勅願所 「不相知霊場」とあり。 |
9 | 深川鎮守神明宮広船(別当泉養寺執事) | 慶応二年九月十八日 | 奉納経 全部 | |
10 | 牛御船王子権現宝前(武州葛飾郡牛島最勝教寺) | 慶応二年九月十八日 | 奉納経 一部 | |
11 | 小石川総社牛天満宮(泉柗山龍門寺) | 慶応二年九月十九日 | 奉納経 全部 | |
12 | 無量山伝通院(蔵司) | 慶応二年九月十九日 | 奉納経 全部 | |
13 | 大黒天神(小石川福聚殿) | 慶応二年九月十九日 | 奉納経 全部三国伝来 | |
14 | 湯島天満宮(北野山別当所) | 慶応二年九月二〇日 | 奉納経 全部 | |
15 | 本尊釈迦如来(円満山殿司) | 同上 | 奉納経 全部 | |
16 | 下谷総鎮守稲荷社(慈雲山知事) | 慶応二年九月二〇日 | 奉納経 全部 | |
17 | 下谷坂東報恩寺(役者) | 同上 | なし | 第一番。 |
18 | 千駄箇谷惣鎮守正八幡宮(別当金剛院瑞円禅寺) | 同年九月二五日 | なし | |
19 | 本社熊野大権現弘法大師(青山浄性院) | 同上 | 奉納経 | 第九番。 |
20 | 信州善光寺大本願上人兼帯所江戸青山善光寺(殿司) | 慶応二年九月廿五日 | 奉納経 全部 | |
21 | 平河天満宮(長松山知事) | 同上 | 奉納経大乗妙典全部 | |
22 | 氷川神社(当番執事) | 慶応二年九月廿六日 | 奉納経 全部 | |
23 | 八幡宮社(金王東福寺) | 慶応二年九月廿六日 | なし | 祭祀八月十五日。 |
24 | 本尊祐天大僧正(祐天寺殿司) | 同上 | 奉納経 大乗浄土三部辞典 | 御祥月七月十五日。 |
25 | 目黒不動尊宝前(泰叡山護国院滝泉寺当番所) | なし | 奉納大乗妙典壱部 | |
26 | 旭大弁才天(潮朝山知事) | 九月七日 | 奉納経全部 | 「弘法大師一刀三札御作」とあり。 |
27 | 二十五番円光大姉(意本山殿司) | 同年九月二七日 | 奉納経 | |
28 | 本尊釈迦丈仏(羅漢寺) | 九月廿七日 | 奉納経 | |
29 | 吾嬬大権現(別当宝蓮寺) | 九月廿七日 | 奉納経全部 | |
30 | 梅若山王大権現(木母寺知事) | 慶応二丙寅年九月 | 奉納経全部 | |
31 | 元祖円光大姉(殿司) | 慶応二寅年九月二八日 | 奉納経 | 十六番。 |
32 | 東叡山弁財天女(不忍別当所) | 慶応二寅年九月二八日 | 奉納経全部 | |
33 | 若一王子宮 | なし | 奉納経全部 | |
34 | 稲荷大明神(知事行者丈) | 慶応弐寅九月日 | 奉納経全部 | |
35 | 本尊釈迦如来(毘沙門尊天駒込吉祥寺) | 慶応弐丙寅年九月廿八日 | 奉納経全部 | |
36 | 牛頭天王稲荷大明神(四谷南寺町別当宝蔵院) | 慶応二丙寅年九月三十日 | 奉納経全部 | |
37 | 愛宕山神殿弘法大師(円福寺知事) | 十月一日 | 奉納経全部 | |
38 | 放光明殿(天徳寺殿司) | 十月一日 | 奉納経 | |
39 | 万松山東海寺(蔵主) | 慶応二丙寅年十一月 | 奉納大乗妙典全部 | |
40 | 七観世音菩薩(府中高安寺執事) | 明治三庚午年二月一日 | 奉納経全部 | |
41 | 本尊阿弥陀如来(下総国葛飾郡本行徳村徳願寺殿司) | 明治三午三月九日 | 奉納経 | 「鎌倉右大将政所御守仏 運慶正作」とあり。 |
42 | 本尊不動明王并両童子(成田山神護新勝寺) | 午三月十一日 | 奉納経 | 「朱雀天皇勅願所」 |
43 | 本尊千手観世音(入間郡新堀村別当金乗院) | 辛未七月十日 | 奉納経全部 | |
44 | 善光寺(武州川口執事) | 明治七年戌九月十九日 | 奉納経全部 | |
45 | 厄除弘法太師(西新井執事) | 明治七年九月廿三日 | 奉納経 | |
46 | 六阿弥陀如来(西ヶ原無量寺) | 戌九月二十三日 | 奉納経全部 | |
47 | 六阿弥陀仏如来(沼田郡延命寺) | 明治七年九月廿三日 | 奉納経全部 | |
48 | 六阿弥陀仏如来(豊島郡豊島村西福寺) | 年未詳 | 奉納経全部 | |
49 | 六阿弥陀仏如来(田ばた与楽寺) | 戌九月廿三日 | 奉納経 | |
50 | 六阿弥陀五番目(東京下谷常楽院) | 明治七年九月廿二日 | 奉納経全部 | 行基菩薩作。 |
51 | 六阿弥陀如来(亀戸常楽寺) | 明治七年九月廿三日 | 奉納経 | 第六番目。 |
慶応2年9月「神社仏閣納経帳」(丹生家文書)より作成。 |
このような寺院と人びとの関係が祈祷を契機に結ばれたものであるとして「祈祷檀家」と理解することもできるが、むしろ固定的な関係ではなく、寺院がさまざまな人びとから寄進を得る場合もあり、当時の寺院を支える人びとの信仰心とのあり方としても注目されよう。