江戸の発展と上水道の整備

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戦国大名北条氏が滅亡したことにより、天正一八年(一五九〇)八月、徳川家康(とくがわいえやす)が関東に入国、江戸を居城とした。さらに家康は、慶長八年(一六〇三)に征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)となり、この地に幕府を創設した。こうして、中世以来、関東の重要拠点であった江戸は、日本の政治の中心地として、大規模につくり替えられていくこととなった。
 しかし、町に住む人びとは、飲料水を確保するのに苦しんだ。『慶長見聞集(けいちょうけんもんしゅう)』という随筆によれば、江戸は海岸を埋め立てて広げた町であるため、井戸の水は塩気が強く、飲み水にできないので万民が嘆いていると、当時の江戸のようすを伝えている。
 そこで、整備されたのが神田上水である。神田上水の開削年代については諸説あるが、おそらくは慶長年間頃で、井の頭池を主要な水源とし、善福寺池や妙正寺池(ともに現杉並区)など、いくつかの小さな川の水を集める用水であった。このほか、赤坂にも溜池を築き、上水が引かれていた。しかし、三代将軍家光(いえみつ)のときの寛永一二年(一六三五)に定められた、全国の諸大名らが交代で江戸に伺候する参勤交代制度(さんきんこうたいせいど)などにより、江戸の人口は増え、町もそれまでの上水の給水範囲外へ広がり続けた。
 そのため、江戸では神田上水が開削されたのちも、新たな上水道が整備されていった。承応二年(一六五三)には玉川上水、万治二年(一六五九)には亀有上水(かめありじょうすい)(本所上水(ほんじょじょうすい))、万治三年には青山上水(あおやまじょうすい)、寛文四年(一六六四)には三田上水(みたじょうすい)、元禄九年(一六九六)には千川上水(せんかわじょうすい)が相次いで開削された。このように、一七世紀末の江戸には、六本の上水道が整備されるに至った(図2-45)。ただし、その後享保七年(一七二二)に、亀有・青山・三田・千川の四上水は廃止され、神田・玉川上水のみが近代まで継続された。
 
江戸の六上水
図2-45 江戸の六上水
肥留間博『玉川上水』p.56の図を転載。